2010-02-12
■ [書留][仏教][スッタニパータ]蛇の章を読む(その30) 
ゴータマさまに帰依したてまつる。
第一 蛇の章
七、賤しい人
このように説かれたときに、火に事えるバラモン・バーラドヴァージャは、師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者を起すように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色を見るであろう』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。ですから、わたくしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」
中村元『ブッダのことば』岩波文庫
註。
散文――(略)
ここでは仏・法・僧の三宝が明示されている。ここのような散文の部分は、(三宝)の観念の成立したのちに著わされたにちがいない。
中村元『ブッダのことば』岩波文庫
ああ、そうすか。そういう風にいわれると、師ブッダ自身の言葉でないので一格落ちる内容なのかな、とか思ってしまいますが。散文から始まったのでこの文を付け加えて第七節の構成をきちんとしたかったのかもしれません。
■ [書留][儒教][子路第十三][宮崎市定]子路第十三を読む(その21) 
切切、偲偲、怡怡如たらば、士と謂うべきなり
子路第十三(303~332)
330 子路問曰。何如斯可謂之士矣。子曰。切切偲偲。怡怡如也。可謂士矣。朋友切切偲偲。兄弟怡怡。
(訓)子路、問うて曰く、何如(いか)なれば斯にこれを士と謂うべきか。子曰く、切切、偲偲(しし)、怡怡如(いいじょ)たらば、士と謂うべきなり。朋友には切切、偲偲たり。兄弟には怡怡たれ。
(新)子路が尋ねた。私どもはどのようにすれば求道の学徒たるの名に恥じないものといえましょうか。子曰く、きびしく、思いやりがあり、仲良くすれば、学徒というに値いする。朋友に対しては、厳しいうちにも思いやりがあり、兄弟に対しては、理窟ぬきに仲良くすることだ。
宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫
これは子路に不足している点を孔子が指摘したのでしょうね。子貢が士を問うた時とは、必ずしも整合せずとも構わないわけです。
孔子門下の長老に近い子路は肝腎なところで後輩に甘かったり、厳しくするつもりが逆に冷淡なだけであったり、また兄弟や親類たちにも孔子の道を吹いてまわって煙たがられたりしていたのかもしれません。