蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-16

[][]文化の罪人~~高島俊男『芭蕉のガールフレンド』お言葉ですが9 文春文庫 19:25 はてなブックマーク - 文化の罪人~~高島俊男『芭蕉のガールフレンド』お言葉ですが9 文春文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

こいすちょう流

 新かな(現代かなづかい)は、それを制定したときの内閣告示の前書きにも明記する通り、現代口語文を書く際のかなづかいである。文語文に適用はできない。

高島俊男『芭蕉のガールフレンド』文春文庫

 ちゃんとしようよ、という話。

こいすちょう流

 文語文に新かなは適用できない。できないものをむりやりに適用すると「こいすちょう」式になる。

 これはもう日本語の破壊である。無茶である。この無茶を四十年来先導してきたのが岩波文庫である。

 芭蕉に「荒海や佐渡に横たふ天の川」という句がある。芭蕉の名吟を十句あげよと言われたら、多くの人がその一つとしてこれを入れるのではなかろうか。

 寺田寅彦が、評論「俳句の精神」でこの句について論じている。当然最初にまずこの句をかかげているのであるが、岩波文庫の『寺田寅彦随筆集』ではそれが「荒海や佐渡に横とう天の川」になっってりう。これがつまり「こいすちょう流」だ。しかしいったい「横とう」などという語があるものだろうか。

 寺田寅彦の随筆を新かなにかえて岩波文庫に入れる。その際なかに出てくる芭蕉だろうが万葉集だろうが、おかまいなく新かなにしてしまうのである。

高島俊男『芭蕉のガールフレンド』文春文庫

 引用はきちんとしましょう、という話。

こいすちょう流

 教師をしていたころ教室で、「文化の罪人岩波文庫、馬鹿の集合平凡社」と都々逸調でよく学生に注意したものだ。口調のつごうでただ「平凡社」だが、これは主として平凡社東洋文庫をさす、とつけくわえる。

 書物を読む際、岩波文庫ならモノが確かかと学生は思いがちだが、これは極力避けよ。特に卒業論文などで引用する際は、岩波文庫は絶対にいけない、ということである。

 ただし平凡社東洋文庫は、方針を転換したらしく十数年前から、しっかりした学者が校訂した良心的な本を出し始めた。ちかごろの平凡社東洋文庫は大丈夫です。これはくりかえし申しておきます。

高島俊男『芭蕉のガールフレンド』文春文庫

 さすが罵倒が本職だけあって悪口も都々逸調ですか。逆に私などはそういうバイアスがあるので、文庫本を軽く扱いかねませんから注意せねば。予算やスペースの関係からも、文庫本や新書本ばかり読んでいるわけですし。

 それと、論文を書いたり近世や明治大正期の文語文を読んだりすることもほとんどなかった。高島先生の要求する水準がはじめから高すぎるわけで、岩波文庫というのは、もっとお気楽お気軽なものだ、と「読書子に寄す」でも言ってます。私にとってはこの注意は、杞憂ってものですね。

芭蕉のガールフレンド (文春文庫)

芭蕉のガールフレンド (文春文庫)

 何故岩波がやり玉に挙げられるのでしょうか。

『銀の匙』の擬声擬態語

 先に「文化の罪人岩波文庫」と書いたらあるかたが、今少し他の例も聞かせて欲しい、と言ってこられた。『銀の匙』はその一つの例である。

 そう言うと、ほかの文庫も同じことではないか、と言う人があるかもしれぬが、それは歴史がちがい格がちがう。岩波文庫は単なる廉価本ではない。

高島俊男『芭蕉のガールフレンド』文春文庫

 単に廉価本だと感じるのはわたしの戦後民主主義的発想のゆえでしょうか。

『銀の匙』の擬声擬態語

 八十年ちかく毎冊末にかかげつづけている「読書子に寄す」に言う通り岩波文庫は、価値ある書物を確かな本文で提供することを、日本の文化に対する創刊当初よりの任務とするシリーズである。そういうものとして、人が信頼してきた。

 (略)その岩波文庫が、まがいものを作ってはいけない。

 それが戦後、本なんぞはだいたいの筋道がわかればよい、というレベルの低い読者に媚びて、作者の鏤骨の文章に無遠慮な手を加えはじめた。しかもそれらを、価値において元の作と変らぬものであるという顔をして、売りひろめた。

 それを指してわたしは、「文化の罪人岩波文庫」と言うのである。

高島俊男『芭蕉のガールフレンド』文春文庫

 ところで「読書子に寄す」には、「芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。」とありますので、岩波書店は高島先生の忠言を真摯に受け入れて、文庫をよりよく改訂しているところなのでしょうね。


[][][]蛇の章を読む(その32) 19:59 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その32) - 蜀犬 日に吠ゆ

平安の境地に達してなすべきこと

第一 蛇の章

八、慈しみ

一四六 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

一四七 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 慈悲の瞑想に近づいてきましたね。というか、こっちが本家であることをつい忘れそうになります。

 註。

一四六 生物生類――panabhuta. 第一の解釈は、pana 即 bhuta と解する。第二の解釈は、pana とは、呼吸をなし、五つの気質(vokara)より成る生きものを意味し、bhuta とは、一つの気質より成り(乃至)四つの気質より成る生きものを意味する。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 むかしどこかで、「仏教は植物を生きものに含めなかったので生類を殺生することを禁じても植物は食べてよかった」とかいうような話を目にした記憶があります。呼吸が確認しづらかったとかそういうことでそういう解釈が生まれたのでしょうか。


[][][][]憲問第十四を読む(その3) 19:25 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

士にして居を懐えば

 憲問第十四(333~379)

335 子曰。士而懐居。不足以為士矣。

(訓)子曰く、士にして居を懐(おも)えば、以て士と為すに足らず。

(新)子曰く、いやしくも求道の学徒として、安楽を願うようでは、学徒たる名が泣くというものだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 居の一字に安居、閑処の意味がある。この章はまた儒教のストイシズムの一面をよく表すものである。学問に志しながら、レジャーの時間を欲しいなどいうようでは見込みがないというわけ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 しかし、孔子先生がこうして忠告するということは、実際問題としてそういう若者が相当数いたということが類推できそうです。

 学而第一にも君子居に安きを求むるなし、とあります。憲問第十四のこの章で、吉川先生は「居」を私生活の意味にとりますが、国を安らかにすることが士の仕事であって、おのれ独りの安逸など考える暇はない、ということなのでしょう。