蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-17

[][][]蛇の章を読む(その33) 20:29 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その33) - 蜀犬 日に吠ゆ

欺いてはならない

第一 蛇の章

八、慈しみ

一四八 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの思いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

一四九 あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。

一五〇 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起すべし。

 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

一五一 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。

 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

一五二 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 全世界に対して慈しみを、という理想論は分かりますが、いややっぱり分かりません。無理ではないでしょうか。自分がいままであったことのない爬虫類を、自分の子のように扱え、と言われても具体的なイメージは湧いてきません。

 抽象論としてであれば分かるのですけれどもね。「世界人類が平和で云々」とか。

 註。

一四九 無量の――aparimana. それは無量の生きものを、念ずる対象(よりどころ)とすること(aparimanasattarammana)である。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

一五〇 障害なく――asambadham (=sambadhavirahitam, bhinnasiman ti vuttam hoti, sima nama paccatthiko vuccati. Pj.p.248.). 場所に関しても限界を設けることなく、分け隔てをしないことである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 と言われても、ねえ。仏教というのは本当に難解です。

一五一 崇高な境地―― brahmam viharam を漢訳では多くは「梵住」と訳す。(略)「崇高な境地」(普通は brahmavihara)として、後代の仏教では、慈、悲、喜、捨(=心の平静)の四つを数える。それを「四梵住」という。ところが、ここでは「慈」についてのみ述べている。四梵住の観念のでき上る前の段階のものであることが解る。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

一五二 邪まな見解――ditthi. 'sophists' views' (Chalmers).

とらわれず――ditthin ca anupagamma. 'Keine Ansicht irgend mehr empfangen' (Neumann).

見るはたらき――dassana. 洞察する直観をいう。

再び母胎に宿ることがないであろう――na hi jatu gabbaseyyam punar eti. もはや、迷いの生存にもどることはないであろう、の意。註(Pj.p.251)には、「かれは浄居天(Suddhavasa, pl.)」に生まれて、そこでアラハーの境地に達してニルヴァーナに入る」と解するが、これは後代の解釈であろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 正直、輪廻を解脱してどうなるのか、ということには現状あまり興味が持てません。どうやって悟りの道に入っていくのか、それが分からない。


[][][][]憲問第十四を読む(その4) 20:29 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

言を危くし行いを危くす

 憲問第十四(333~379)

336 子曰。邦有道。危言危行。邦無道。危行言孫。

(訓)子曰く、邦に道あるときは、言を危(たか)くし行いを危(たか)くす。邦に道なきときは、行いを危くし、言は孫(ゆず)る。

(新)子曰く、道義の行われる国においては、最高に言論し、最高に行動する。道義の行われそうもない国においては、最高に行動するが、言論の調子を下げるものだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 こういう戒めを読むと、どうしても逆の方を想像してしまいます。すなわち、孔子がこのような警句を発したのは、国の道義が失われているとき、言論は謹んで自分の職責をきちんと果たすべきであるのにもかかわらず、現実には混乱に乗じて利得を貪り、なお高邁な言説を弄して道義の喪失をいいくるめる人々がいたのではないでしょうか。