蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-18

[][][][]憲問第十四を読む(その5) 19:50 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その5) - 蜀犬 日に吠ゆ

徳ある者は必ず言あり

 憲問第十四(333~379)

337 子曰。有徳者必有言。有言者不必有徳。仁者必有勇。勇者不必有仁。

(訓)子曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇有り。勇者は必ずしも仁あらず。

(新)子曰く、修養して徳を得た人は必ず良いことを言う。しかし、良いことを言う人は必ずしも徳のある人とは限らない。最上の人格者は必ず勇気がある。しかし勇気のある人がいつも人格者とは限らない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 必要条件、という話。

 「徳」や「仁」というものは、人間の内面にあって目に見えるものではありません。一方、「言」や「勇」というのは派手なパフォーマンスとして表現することができます。ですから、人目につくところでパフォーマンスを行っていることに惑わされず、その「言」が、その「勇」があらわれてくる根本の所をしっかりと見極めなければならない、ということでしょうね。

 自己においては、ですから修養を積むことを第一の目標にして、受け狙いの言説やポーズを弄してはならない、と。他者を見るときは、その言説や勇ましい態度に目をくらまされることなく、冷静に観察しなければならない、と。


羿は善く射、奡は舟を盪えす

 憲問第十四(333~379)

338 南宮适。問於孔子曰。羿善射。奡盪舟。倶不得其死然。禹稷躬稼而有天下。夫子不答。南宮适出。子曰。君子哉若人。尚徳哉若人。

(訓)南宮适、孔子に問いて曰く、羿(げい)は善く射、奡(ごう)は舟を盪(くつが)えす。倶にその死然を得ず。禹、稷は躬(みず)から稼して天下を有(たも)てり、と。夫子、答えず。南宮适、出づ。子曰く、君子なるかな、若(かくのごと)きの人、徳を尚ぶかな、若き人

(新)南宮适が孔子に話しかけた。羿は弓術の達人であり、适は力が強く舟を顚(くつが)えすほどであったが、いずれも寿命を全うすることができなかった。禹や后稷は自身で農業に従事したが、後に天下の主となったそうですね。孔子はそれに相槌をうたなかった。南宮适が退出したあとで、子曰く、立派な教養ある君子がいるとすれば、あの人だな。修養に努めているな、あの人は。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 南宮适は、古注では魯の家老であった南宮敬叔、史記及び新注は孔子の兄の娘婿である南容であるとします。白圭を誦してほめられた人ですね。複姓「南宮」名「适」、よみは「なんきゅうかつ」ですが、加地先生は「なんぐうかつ」とルビを振っていますね。

 どちらか知りませんが、とにかく南宮适が尋ねてきて、古代の人の話をします。

 さて、その人物の孔子に対する問いは、古代伝説を題材とする。羿も奡も、古代伝説の中の暴力的な英雄である。説話の全貌は、他の諸説話と同じく、司馬遷その他、合理主義的な史家から、記載を拒否されたため、今日もはやつかめない

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 とありますが、とりあえず、羿から。

羿は夏の時代の諸侯で有竆国(ゆうきゅうこく)の君である。弓を射ることが上手で、夏の天子の相という人を滅ぼしてその位を簒(うば)ったが、その臣の寒浞(かんそく)が又羿を殺してこれに代った。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 寒浞は、宇野先生のみ「かんそく」で、他は「かんさく」。太陽を射殺したり奥さんが月に昇って蟇蛙になったりした人とはべつなのかしらん。

奡は浞の子で地上に舟を推しやる程の力があったが、後に夏の天子の少康(相の子)という人に誅せられた。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 しかし、この奡の出生にも秘密があり、

寒浞は羿の妻を妻として奡を生んだが、奡はのち夏王朝の遺児少康に殺された

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 というわけで、蟇蛙どころか羿の妻は寒浞の妻にされたのでした。悪逆無道な人々であることが強調されますねえ。

外廓だけは、「春秋左氏伝」襄公四年の魏公の発言、また哀公元年の伍員(ごうん)の発言によって、断片的にわかる。いずれも暴力的な英雄として語り伝えられたにちがいないが、うち奡の行為としてここにいう「盪舟」については、くわしいことがわからない。古注の孔安国は、「奡は力多く、能く陸地に舟を行(や)る」とするが、清儒はそれを杜撰とし、舟いくさのことという説などを、提出している。

 何にしても、南宮适と孔子とが、共通の話題とし得た説話の内容を、われわれは知悉しないのであるが、古代の暴力者二人は、暴力による不道徳のゆえに、いずれもたたみの上で死ねなかった。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 一方善玉一味。

禹は洪水を治め稷と共に播いたり植えたりして身親(みみずか)ら耕作に従事したけれども、禹は舜の禅(ゆず)りを受けて天子となり、稷の後は周の武王に至ってまた天子となった。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 孔子はこれに対して返事をしなかったのですが、あとでほめました。

 これはいろいろ解釈がありますが、あまり公然とほめると、南宮适が己惚れるとか、あるいは兄の娘むこであるから遠慮してこっそりほめた、というのがありそうです。