蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-07

[][][]蛇の章を読む(その37) 20:21 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その37) - 蜀犬 日に吠ゆ

苦しみから解き放たれる

第一 蛇の章

九、雪山に住む者

一六七 (その二人の神霊がいった)、「説き示す人、解き明かす人、あらゆることがらの究極をきわめ、怨みと怖れを超えた目ざめた人、ゴータマに、われらは問おう。」

一六八 雪山に住む者という神霊がいった、「何があるとき世界は生起するのですか? 何に対して親しみ愛するのですか? 世間の人々は何ものに執著(しゅうじゃく)しており、世間の人々は何ものに悩まされているのですか?」

一六九 師は答えた、「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」

一七〇 「それによって世間が悩まされる執著とは何であるか? お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてください。どうしたら苦しみから解き放たれるのでしょうか。」

一七一 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲(とんよく)を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

一七二 世間の出離であるこの道が汝らに如実に説き示された。このことを、われは汝らに説き示す、――このようにするならば、苦しみから解き放たれるのである。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 真打登場。神霊(ヤクシャ)たちは結構本質的な質問をしますね。「世界は何によって生起するのか?」大乗仏教の唯識であれば「識」だと言えますが、師ブッダはどう答えるのか、って、はぐらかしとる!

 註。

一六七 あらゆることがらの究極をきわめ―― sabbadhammana paragum・・・・・・. 「究極」は「彼岸」(para)という語で示されている。問う人は、迷いの世界のかなたにある境地を求めたのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「究極をきわめ」、というのも言葉として面白いですね。重言ですけど、つい言いたくなります。

一六九 六つのもの――眼、耳、鼻、舌、身、意の六入をいうのであろう。註釈は「六つの内外処」と解する(chasu ajjhattkabahiresu ayatanesu・・・・・・)。しからば眼、耳、鼻、舌、身、意の六根(六つの機官)すなわち六内処と、色(いろとかたち)、声、香、味、触(触れられるもの)、法(以上のもの以外で考えられる対象)の六境すなわっち六外処とを言うことになるが、それは原意ではないであろう。第一七一詩参照。

 親しみ愛し――この原文から見ると、「親しみ愛する」(samthava)も「執着する」(upada)(upadana, v.170)も、ほぼ同義であるらしい。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 当然、親愛の情などというものは迷妄であり邪念ですよね。仏教というものは基本的に、リアルでかつクールなものなのですから。

一七〇 世間――loka. 人間の迷いの世界、迷っている人々をいう。

 苦しみから解き放たれる――ジャイナ教でも同じ文句を説いている(dukkha pamokkhasi. Ay.Ⅰ,3,3,4)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 でましたね、またジャイナ教。しかし、仏教とジャイナ教は、世界への問題意識や提起の点に関しては共通する部分が大きいと言わざるをえないのでしょうね。苦しみからのがれるアプローチの方法が異なりはするものの。

一七一 五種の欲望の対象――その原文は panca kamaguna である。guna という語は、サンスクリット語文献では一般に徳(Tugend, virtue)の意味に用いられる。サーンキヤ哲学では、これを物質的自然の三つの根本的構成要素(三徳)を称する名称となっている。ところが、原始ジャイナ教聖典の古い箇所ではこの語を「感官の対象」という意味に用いる。Ratnacandra 編『アルダマーガディー辞書』六三一頁 guna の項によると、この語を sabda, rupa, rasa など、感官の対象(indriyavisaya)の意味に用いるのはアーヤーランガ特有の用例であり、そのほかには殆んどあらわれない。しかも第一編のガーターのうちにのみ存する(ed. Schubring, p.4, ll.3;24; p.6, ll.8f.)。

 また叙事詩においても五種の感覚器官を通じて享受される五種の対象を guna と呼んでいる(MBh. ⅩⅡ,203,1)。もちろん叙事詩(とくに Moksadharama)において guna がサーンキヤ的な意味に用いられていることも、しばしばあるが、ジャイナ教と共通の用法も存在するのである。

 ところで、原始仏教聖典においても、ガーターの部分においては、guna という語を感官の対象の意味に用いている。例えば、色、声、香、味、触(phottabba)の五つを kamaguna と呼んでいる(kamaguna nam' ete ariyassa vinaye vuccati. AN.Ⅲ, p.411G.)。

 また散文の部分にも実例が存する。

 (略)

 これらに対応する漢訳を見ると、「五色」と訳してあることもある(『雑阿含経』二八巻、大正蔵、二巻、一九九頁上)。また直訳して「五欲功徳」(同上箇所、『中阿含経』第四九巻、大正蔵、一巻、七三九頁中)と訳していることもあるが、直訳にすぎて意味が通じない。玄奘は「世妙境」と訳しているが、(『法蘊足論』六巻、大正蔵、二六巻、四八二頁中、『倶舎論』第八巻、大正蔵、二九巻、四一頁下)、これはけだし適訳というべきである。

 このようにジャイナ教の古いガーター並びに叙事詩と仏教の古いガーターとにおける guna の用例が一致しているが、このような用例は後世の仏典及びジャイナ教聖典からは消失した。

 貪欲――chanda. これを離れることを説いているのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫