蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-10

[][][][]憲問第十四を読む(その19) 15:24 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その19) - 蜀犬 日に吠ゆ

欺くなかれ。而してこれを犯せ。

 憲問第十四(333~379)

355 子路問事君。子曰。勿欺也。而犯之。

(訓)子路、君に事えんことを問う。子曰く、欺くなかれ。而してこれを犯せ。

(新)子路が君主に仕える道を尋ねた。子曰く、匿さずに言うことだ。機嫌をとろうと思うな。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 子路の性格からすると、君主の領域を侵犯して不興を買うことなど恐れなそうですが、孔子から「佞者」とまで呼ばれた悪知恵の子路ですから、(もちろんよかれと思って)情報を隠したり操作したり、命令されないことをこっそり実行したりする危険性はありそうですね。ですが、裏側でこそこそやった上での直言諫言は、意味が無いどころか君主を侮り国を混乱させるもとになります。誠実に、つつみかくさず振る舞うからこそ、ここぞの諫言が効いてくるのだ、ということでしょう。


君子は上達し、小人は下達す

 憲問第十四(333~379)

356 子曰。君子上達。小人下達。

(訓)子曰く、君子は上達し、小人は下達す。

(新)子曰く、諸君は一段と高い次元で物事を考えてほしい。低いレベルに降りて議論しては何にもならない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 君子は義に喩り、小人は利に喩る、と、基本的には同じ話でしょうか。吉川先生は迷います。

 意味をとりにくい章である。君子は本質的なことに通暁しようとし、小人はつまらない末梢的な事がらに通暁する、というのを、仮りの訳とする。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 意味がとりにくいのは、おそらく「達」でしょうね。宮崎先生は「思考の視点の置き所」といった風にとらえていらっしゃるのでしょうか。宇野先生は、「知性や徳の到達点」と見るようです。

[通釈] 君子は平生正しい道に循(したが)うから、その徳が日に進んで、高明の極に達する。小人は平生私欲に循うから、その徳が日に降って汙下(おか)の極に達する。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 まあ、君子は立派で、小人は駄目、というイメージが伝わればいいのではないかと思います。


 「小人」を知識人として解釈することでおなじみの加地先生の訳。

 老先生の教え。教養人は根本や全体が分かる。知識人は末端や部分について知っている。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 宮崎先生の、視点のありようという解釈に近いでしょうか。


古の学者は己の為にす

 憲問第十四(333~379)

357 子曰。古之学者為己。今之学者為人。

(訓)子曰く、古の学者は己の為にす。今の学者は人の為にす。

(新)子曰く、昔の学者は自己の内容充実を計るのが学問であった。近頃の学者は人に見せるための学問をする。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 解釈に問題はないようです。前条で迷った吉川先生も、

言葉の意味は自明である。さまざまの演繹が可能であろう。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 と簡単にすませています。


 ところで、普通、「己のためにする」ことと、「他人のためにする」ことって、どちらが評価されましょうか。前者は「利己的」「自己中心的」として非難され、後者が称揚されるじゃないですか。私は一読したとき、その方が気になりました。そして、そこにこそ、「学問」というものの特徴が顕れているのではないかと。

 すなわち、「学問」自体というのはあくまでも個人の修養によるものであって、人のためになるような学問というものはない、のではないでしょうか。科学や医学がわたしたちの暮らしを豊かにする、というのは「学問の結果」を応用したのであって、学問そのものではない。むしろ基礎研究などは「何の役にも立たない」というレッテルを貼られてしまいがちです。じゃあ、庶民にウケのいい分野を……とかいう流れは、まさに「人の為に」学問を歪めてしまうことになります。さすが夫子の言葉は、奥が深い。