蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-13

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×ーペケー 1 (小学館文庫 あE 4)

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[][][]蛇の章を読む(その38) 16:48 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その38) - 蜀犬 日に吠ゆ

あなたはわれらの無上の師であります

第一 蛇の章

九、雪山に住む者

一七三 「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」

一七四 「常に戒めを身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

一七五 愛欲の思いを離れ、一切の結び目(束縛)を超え、快楽による生存を滅しつくした人――、かれは深海のうちに沈むことがない。」

一七六 (雪山に住む者という神霊がいった)、「深い智慧があり、微妙な意義を見、何ものをも有せず、欲の生存に執著せず、あらゆる事柄について解脱し、天の路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。

一七七 世に名高く、微妙な意義を見、智慧をさずけ、欲望の起る根源に執著せず、一切を知り、よく聡明であり、気高い路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。

一七八 今日われらは美しい(太陽)を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり超え、煩悩の汚れのなくなった(覚った人)にわれらは見えたからである。

一七九 これらの千の神霊どもは、神通力あり、誉れたかきものどもであるが、かれらはすべてあなたに帰依します。あなたはわれらの無上の師であります。

一八〇 われらは、村から村へ、山から山へ、めぐり歩もう、――覚った人をも、真理のすぐれた所以をも礼拝しつつ。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 なんだかおかしな話ですね。一切の真理を知らない者が、「この人は一切の真理を知っている」ということを判断できるものでしょうか。

 とりあえず、千の神霊どもは仏門に降った、と。

 激流や深海など、分かるようでわからない喩えもたくさん出て来ますが、喩え、でいいのでしょうか。もっと直接、実物のことを話している可能性とかはないのでしょうか。

 註。

一七三 激流――迷いの輪廻の生存を激流または海に譬えるのである。

 大海――前註に同じ。「大海」(annava)という場合には、インド人は洪水によって出現した大海原を考えていたと思われる。中部インドの人々は海洋(ocean)を知らなかった。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 普通に英語も混じりますが、海洋(ocean)の言い換えって、必要ですか?

 一七六から一七八までは「雪山に住む者」が眷族の神霊に呼びかけた詩。

 欲の生存――kamabhava. 後代の仏教においては、これは「欲有」と漢訳され、欲有(欲界の生存)、色有(色界の生存)、無色有(無色界の生存)を三有(Skrt. trayo bhavah)という。しかし最初期の仏教徒は、人間は欲望にとらわれたものであるという生存状態をまともに凝視していたから、それ以外の生存のことは考えなかったのである。

 天の路を――dibbe pathe. これは、必ずしも空間的な天の世界の道を意味するのではなく、崇高な道、清らかな道、を意味する。

一七七 気高い路を―― ariye pathe・・・・・・.

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

一七八 美しく晴れた朝に逢い―― suppabhatam(=Skrt. suprabhatam). 今日でもインド人は、朝、人に会うと、「お早うございます」'good morning!'という場合に、'suprabhatam' と呼びかける。ただしこの呼びかけは西洋の'good morning!'に対応するものとして新たにつくられたのだといわれる。

 煩悩の汚れのなくなった――anasava.

 ここでは古来行われている太陽崇拝を受けている。それが仏教に受容され、日本の日蓮宗に至るまで生きているのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 なぜに突然日蓮宗なのか分かりませんが、日本仏教の太陽崇拝は、古代日本の文化が混淆、あるいは習合したのではないでしょうか。

一八〇 この最後の句の原文は、namassamana Sambuddham, dhammassa ca sudhammatam となっっている。この詩では「仏・法・僧」の三宝のうち「仏」と「法」とにのみ言及している。「僧」(amgha 教団)に言及していないのは、教団が特に尊敬さるべきものと考えられる以前の段階において、この詩がつくられたことを示している。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 とにもかくにも、雪山編終了。

[][][][]憲問第十四を読む(その21) 16:04 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その21) - 蜀犬 日に吠ゆ

その言の其の行いに過ぐるを恥ず

 憲問第十四(333~379)

361 子曰。君子恥其言之過其行。

(訓)子曰く、君子はその言の其の行いに過ぐるを恥ず。

(新)子曰く、諸君は、言葉が実行よりも立派なことは恥辱である、と銘記してほしい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 これを言いて怍じざれば実行は難しい、というのと同じことを、逆から言ったのでしょう。里仁第四躬の逮ばざるを恥ずればなり、でも触れられた、君子は言葉を大切にする、言ったことには責任を持って行動することの繰り返しです。

 こうした言葉が多く残されたのは、分かっていても難しい教えであることの裏返しでしょうか。


 宇野先生は読み下しからして異なる解釈。

子曰はく、君子はその言を恥ぢて、其の行ひを過ごす。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

[通釈] 君子はその言をはじらって引込むようにして敢えて尽くさず。その行いの餘りあらんことを勤める。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

[解説] この章は言行のかくあるべきことを述べたのである。

 言は放ち易いから恥じなければならぬ。行いは尽くし難いから過ごさなければならぬ。(黄幹)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 すなわち「過」の字を言葉と行動を比較するものとはとらえずに、「恥」に対応する対句表現と解釈したわけです。これでも意味は通じますが、ほかの章句との関連性は薄れますね。