蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-18

[][][]蛇の章を読む(その39) 20:03 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その39) - 蜀犬 日に吠ゆ

アーラヴァカという神霊

第一 蛇の章

一〇、アーラヴァカという神霊

 わたくしが聞いたところによると、――あるとき尊き師(ブッダ)はアーラヴィー国のアーラヴァカという神霊(夜叉)の住居に住みたもうた。そのときアーラヴァカ神霊は師のいるところに近づいて、師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出てきた。(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって、師は入った。ふたたびアーラヴァカ神霊はいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出て行った。(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。三たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出てきた。(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。四たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。(師は答えた)、「では、私はもう出て行きません、汝のなすべきことをなさい」と。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 あそんでいるとしか思えません。

 まだ問答が始まらないのですけれど、この冒頭部分はいったいどういう伏線か? 予想としては、張りっぱなし。

 註

アーラヴァカという神霊――Alavaka. この教えはほとんどそのままの形で他の経典(SN.Ⅹ,12,Alavam, vol.Ⅰ,pp.213-215)に出ている。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

[][][][]憲問第十四を読む(その25) 19:05 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その25) - 蜀犬 日に吠ゆ

抑も亦た先ず覚る者は是れ賢

 憲問第十四(333~379)

365 子曰。不逆詐。不億不信。抑亦先覚者是賢乎。

(訓)子曰く、詐りを逆(むか)えず。信(まこと)ならざるを億(はか)らず。抑も亦た先ず覚る者は是れ賢なるか。

(新)子曰く、欺されはしないかと疑ってかかったり、嘘ではないかと予防したりする気がなくて、それでいてちゃんと偽りを見抜くことの出来るのが本当に頭のいい人だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 あらかじめお見通しになれる、「賢い」人になるのは容易なことではありませんよねえ。

 この章句は、普段の態度を坦蕩蕩にしなさい、という教えかと読み取りました。


 たいへん読みにくい章である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 古注では、後半部分の解釈が逆になるそうです。

 古注は、まえの七字についての注を欠くので、意をつまびらかにしにくいが、あとの方は、あたま回転がはやすぎて、人よりも先に気がつくものは、是れ賢ならん乎(や)、賢者ではない、そうした人間は、あべこべに人から怨まれる、と注している。

 徂徠は、上の二句七字は既存のことわざであり、「抑も亦た」以下は、ことわざに対する孔子の感想であるとする。徂徠もことわざの意味は新注のように、人の悪意を、先廻りして憶測してはいけないと見、それに対し、孔子は、なるほど、いったい頭の良いだけが賢者の資格かね、といったとする。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 欺されたくないとか、疑いの心をもって人と接することを問題視するのであれば、古注の解釈の方が素直、とも言えます。


 しかしでは、この生き馬の目を抜く世の中で、坦蕩蕩に振る舞うためには、どうすればよいのか。

 「危機や危険をあらかじめ知ることができ、避けることが出来る」というのは、新注のように「賢い」といえましょうが、実際にそんなことは不可能だ、ということは議論をまたないでしょう。イェホバさんがついていてくれても、預言者個人も契約の民も危機を回避することには失敗ばっかりであったような記憶があります。

 古注のように「他人の悪い部分にばかり注目し、それから逃げ回る」ようでは、学問に志をたてて君子をめざす意味がありません。


 私が思うにこれは、「ゆったりと構えて、危機に対処できる能力」が問われているのではないかと考えます。

 工学的なものの考え方、とも言えましょう。

第3章 技術者に要求されるセンス

  1. 上手くいかないのが普通、という悲観
  2. トラブルの原因を特定するための試行
  3. 現場にあるものを利用する応用力
  4. 最適化を追求する観察眼
森博嗣『創るセンス 工作の思想』集英社新書

 ここでいう、一番。

第3章 技術者に要求されるセンス

悲観してかかる姿勢

 第一のセンスは、やはり「悲観」あるいは「心配性」という基本姿勢だる。優れた技術者に共通する感覚といっても良い。ただし、口に出るものは人によって違う。思っていることをそのまま言う人もいれば、ほんとうは心配していても「まあ、大丈夫でしょう」と笑う人もいる。それは、自信家かどうか、あるいは経験値の大小によっても異なるはずだ。しかし、基本的な部分では、やはり「悲観してかかる姿勢」が大事だと思う。

 どうして悲観的になるのかといえば、これまで多くの失敗を実際に見てきたからだ。奇跡的に上手く行くこともときどきあるが、普通は必ずなんらかのトラブルが起こる。だから、そういったものを見越してプロジェクトに臨む、というのが技術者の基本である。

森博嗣『創るセンス 工作の思想』集英社新書

 新注の解釈。

第3章 技術者に要求されるセンス

悲観してかかる姿勢

 こういう話をすると、「いや、トラブルが起きないようにするのが本来あるべき姿だ」と言う人がいる。しかしそれは「言葉だけの理想論」であって、まったくリアリティがない。そんな言葉をいくら重ねても、失敗やトラブルを根絶することは出来ない。また、「気を引き締めて事に当たることが大事だ」という精神論も、まったく筋違いである。技術は気合いで成り立っているものではない。方向性としては、むしろその逆である。このあたりを、技術者の上に立つ人間はよくよく理解しておくべきだ、と僕は常々感じる。技術を知らない指導者というレッテルを貼られると、コミュニケーションに支障を来すことにもなるだろう。

森博嗣『創るセンス 工作の思想』集英社新書

 君子たるものの、当然の姿勢であるからこそ、夫子も「危機を避けようとキョトキョトするのではなく、ゆったり構えて対処せよ」と仰ったのでしょう。


丘は何ぞ是の栖栖たるを為すか

 憲問第十四(333~379)

366 微生畝謂孔子曰。丘何為是栖栖者与。無乃為佞乎。孔子曰。非敢為佞也。疾固也。

(訓)微生畝、孔子を謂いて曰く、丘は何ぞ是の栖栖(せいせい)たるを為すか。乃わち佞たるなからんや、と。孔子曰く、敢て佞を為すに非ず。固きを疾(にく)むなり。

(新)微生畝が孔子について言った。孔丘は何故あのようにへこへこしているのだろうか。どうも安易に妥協しすぎるように思える、と。孔子曰く、決して妥協したりなどはしない。しかしそう見えるなら、それは固い殻に閉じこもっていないからだろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 恭にして安らかであることが、「微生畝とかいう親父」の目にはこのように見えてしまう、という例。しかしまあ、分かってもらえないからと言ってくさくさしないのも、夫子の美点。

(1)微生畝は隠者(世を避け山野に隠れ住む人)の仮名とされる。「微」はかすかな取るに足らないもの、「畝」は畝を耕しての生活者という意味であろうから、名もなき百姓おやじという感じ。

(2)「丘」は、孔子の本名である。それを使えるのは、父母か師か主君であるので、あえて本名を使うのは、喧嘩を売ったことになる。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 ま、普通に

 微生が姓であり畝が名であるが、いかなる人物であったかは、わからない。問答の内容からいって、孔子より先輩であったように思われる。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 と解釈することも出来ますよね。そうでなければ礼の国の面子が立ちません。

 何にしてもこの憲問篇には、あとの微子篇などとともに、孔子に批判的であった人物の言葉がしばしば見えるが、この章はそのはじめとなる。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 ここからが、ほんとうの戦いだ!


驥は其の力を称せず

 憲問第十四(333~379)

367 子曰。驥不称其力。称其徳也。

(訓)子曰く、驥は其の力を称せず。其の徳を称するなり。

(新)子曰く、千里の馬はその血統よりも、調教の効をこそたたえられるべきだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 徳という字ほど多種多様の意味をもっていて学者を戸惑いさせるものではあるまい。恐らく徳の原義は、徳は得なり、と説明されるように、後得の性をさすものであろう。すなわち本来の生まれつきの性質でなく、生まれてから後、修養によって得られた性質のことである。そこから修養という意味も、美徳の徳、更に善意の意味も生じたのである。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 ですから逆に「力」は血統と解釈されるわけですね。

 さすがに馬には道徳心を求めたり出来ないので、普通は「その節度ある風格を褒めている」(加地本)、「なれて御し易く従順な徳を称する」(宇野本)あたりの解釈を取るのでしょうけれども、宮崎先生の解釈もよくわかります。