蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-21

[][][]蛇の章を読む(その40) 23:51 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その40) - 蜀犬 日に吠ゆ

アーラヴァカという神霊

第一 蛇の章

一〇、アーラヴァカという神霊

 (神霊がいった)、「道の人よ、わたしは汝に質問しよう。もしも汝がわたしに解答できないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけよう。」(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わが両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけ得るような人を、実にわたしは見出さない。友よ。汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け」と。そこでアーヴァラカ神霊は、師に次の詩をもって呼びかけた。――

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 この散文、必要か? 仏教の初期、すなわち仏典結集がなされるまでは口伝が行われていたといいますが、この部分を暗記することは無駄のような気もしますし、仏説の権威づけには機能したのかもしれません。よく分かりません。


[][][][]憲問第十四を読む(その28) 20:52 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その28) - 蜀犬 日に吠ゆ

道の将に行われんとするや、命なり

 憲問第十四(333~379)

370 公伯寮愬子路於季孫。子服景伯以告曰。夫子固有惑志於公伯寮。吾力猶能肆諸市朝。子曰。道之将行也与。命也。道之将廃也与。命也。公伯寮其如命何。

(訓)公伯寮、子路を季孫に愬(うった)う。子服景伯、以て告げて曰く、夫子固より公伯寮に惑志あり。吾が力、猶お能くこれを市朝に肆(さら)さん。子曰く、道の将に行われんとするや、命なり。道の将に廃せんとするや、命なり。公伯寮、それ命を如何せん。

(新)公伯寮が子路のことを魯の大臣、季孫に悪しざまに讒言した。子服景伯が孔子にそれを報告して曰く、大臣は前から気に入りの公伯寮に欺されがちなのです。しかし私はあの男をいつか衆人環視の中で叩きのめしてやる力があります。子曰く、私が昔からの道を復興しようとして成功するなら、それは天命だ。私が昔からの道を復興しようとして失敗するなら、それも天命だ。別に公伯寮が天命を動かしているわけではないだろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 運命論。終わり。


 新キャラが続々登場。

 季孫のお気に入りで讒言をした公伯寮。

 公伯寮は、「史記」の「弟子列伝」に、「字は子周」と見え、しからば、七十二人の弟子中の一人であるが、この条によれば小人である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 当時、子路は魯国の実力者である季氏(季孫氏)に仕えており、公伯寮は同僚であったらしい。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 子服景伯は魯の臣であったため、これを早速報告。

子服景伯は魯の大夫子服何。子服は氏、景は諡、伯は字。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 とされますが、異論も。

 また子路を擁護した子服景伯を、古注は「魯の大夫子服何忌」とし、新注は「子服何」とする。いずれも「左伝」に見えるが、二人は別人であり、子服何は、哀公三年から十三年までに見える。劉宝楠は考証して、新注の方が正しいとする。その名はのちの子張篇にも再び見えるが、そこでも孔子とその弟子たちに好意をもつ魯の重臣である。「礼記」の「檀弓」篇の最初の条に見える子服伯子も、そこの鄭玄の註によれば、同じ人物であり、そこで子游とかわした問答の口吻から見て孔子の学問に敬意を払う教養ある家老であった。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 教養ある、というわりには「吾が力、猶お能くこれを市朝に肆さん」などとなかなか物騒なことを言います。宮崎先生は「衆人環視の中で叩きのめしてやる力があり」などといいますが、

「肆」は処刑したあと、大夫以上は朝(国君の政庁)に、士は市にさらす(『正義』)。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 で、つまり「(子路が処刑される前に)ヤっちまいましょうか?」と、剣呑な提案をしているわけです。こわいよなあ


 この条における孔子は、もっとも運命論者であるように見える。仁斎はいう、(略)いいかえれば、個人的な事柄については、あくまで個人の努力を尊重するが、大きな歴史の動きには、人間の意志以上の天の意志を認めたとするのである。(略)ただ下論における孔子は、上論の孔子よりも、より多く運命論者であるように感ずる。しかしその運命論は、結局において悲観的なものではない。この条も公伯寮という個人が、歴史の運命に逆らえるものか、というのは、歴史の運命がどの方向に向かっているかを、暗黙に語るごとくである。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 述而第七「桓魋ごとき」を相手にしなかった孔子ですから、公伯寮風情など、ますます恐るるに足らず、ほっとけほっとけ、という感じでしょうかね。

 しかし、子路の廻りもだんだんと修羅場となってきたのかもしれませんね。破滅への予兆は、ささいなことから始まって、しだいに誰もが感じ取れるようになってきたころには、取り返しがつかなくなっていたのかもしれません。



賢者は世を辟く

 憲問第十四(333~379)

371 子曰。賢者辟世。其次辟地。其次辟色。其次辟言。

(訓)子曰く、賢者は世を辟(さ)く。其の次には地を辟く。其の次には色を辟く。其の次には言を辟く。

(新)子曰く、(政治が乱れて危険な時には)賢者は世事から遠ざかって隠居する。それでもまだ危険なら、違った土地へひっこしする。それでもまだ危険なら、人相の悪い人間とはつきあわない。それでもまだ危険なら、迂闊なことを言う人間と話さない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 普通に其次以下を、次賢者、次次賢者、次次次賢者という風に解釈するが、それでは最後の次次次賢者とはどの程度の人物か分らない。どうもこういう層序法はあまり例を見ない。こういう際には段階に応じて、別の形容詞を用いるか、少くも最後へ行って、下なる者とか、愚者とかで結ばなければ、たれ流しになってしまう。更に色、言の解釈も君主の顔色、君主の言語では、上とのつながりが悪くて納得しがたい。其次を、次の段階では、と副詞に読めば解釈がつきやすくなる。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 まさかの、原典へのダメ出し。「賢→愚」ではなくて、時間的な「其次」で、同じ人が順々にこうしたものを避ける、でもいいと思うのですが、そういう解釈はない模様。

 この章は進退は時の宜しきに随うべきことを示したのである。

 世を避けるのは伯夷や太公が紂を避けた類である。(孟子離婁上篇)地を避けるのは百里奚が虞を去って秦へ行った類である。(孟子万章上篇)色を避けるのは孔子が衛の霊公の飛雁を見て己を忘れたのを見て去った類である。(孟子告子下篇)言を避けるのは衛の霊公が陣を問うたので孔子が遂に行った類である。(衛霊公篇)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

作(た)つ者、七人

 憲問第十四(333~379)

372 子曰。作者。七人矣。

(訓)子曰く、作(た)つ者、七人ありき。

(新)子曰く、世を避けた人、七人の名をあげることができる。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この七人について諸説あるが、恐らく468に見える逸民七人、すなわち、伯夷、叔斉、虞仲、夷逸、朱張、柳下恵、少連のことであろう。もと論語のこの条の下に七人の名があったのを後人が468と重複するため削ったか、あるいは初めから、単に七人と数だけ記録されたものか、今から知ることはできない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

七人――だれをさすか異説が多く不明。微子篇第八章の逸民七人を当てるのは魏の王弼。

金谷治『論語』岩波文庫

 

 古注では、前条とあわせて一章とし、そうした賢明な逃避を作した者は七人ある、とし、七人とは、のちの微子第十八に見える長沮と桀溺と丈人、この篇のすぐあとに見える石門と荷蕢、八佾第三の儀の封人、および再び微子の楚狂接輿であるとする。その説では「作」の字を「為也」と訓ずる。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

新注は、まえと連ねて一章とせず、また「作」の字を「起つ也」と訓じ、「起ちて隠れ去る者、今ま七人」ただし七人の名前は不明とする点、古注と異なるが、前条とつらなった内容であるとするのは、古注と同じである。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 全く別の説として、「作者」とは人間の生活の方法を創作した聖人であり、「七人」とは、伏羲、神農、黄帝、堯、舜、禹、湯、であるとする説が、北宋の張載の語録に見える(「張子全書」第十二)。「礼記」の「楽記」の、「作る者を之れ聖と謂う」がその論拠である。徂徠も、張載の説をよしとする。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 要するに不明、でいいじゃないですか。

 しかし、七人組の元祖がこんな所にあったとは。つまり「七人の侍」は論語のパロディ?