蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-22

[][][]蛇の章を読む(その41) 20:28 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その41) - 蜀犬 日に吠ゆ

この世では信仰が人間の最上の富である

第一 蛇の章

一〇、アーラヴァカという神霊

一八一 「この世で人間の最上の富は何であるか? いかなる善行が安楽をもたらすのか? 実に味の中での美味は何であるか? どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」

一八二 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧によって生きるのが最高の生活であるという。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 いよいよ問答開始。

 なかなかにアーラヴァカもはっきりした質問ですね。

一八一 ここに説かれているように、「どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」(kathamjivim jivitam ahu settham ?)というのが、仏教の中心問題であった。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 大切なことだとは思いますが、仏教って、ほんとう他人とか人間社会とかどうでもいい扱いですよね。

一八二 信仰――saddha.

徳行に篤いこと――dhammo sucinno.

真実――saccam.

智慧によって生きる――pannajivim…….

釈尊の成道直後の詩によると、「信仰(saddha)を捨てよ」ということを教えている。それは、ヴェーダ以来の祭祀・教学に対する信仰を捨てよ、というのである。しかしここではブッダの説いた真理、理法に対する信仰を説いているのである。信仰を意味する原語はいろいろあるが、saddha というのは、理法、教えに対する信頼を意味するのであって、個人に対する狂熱的服従ではない(このような教えは本書では遅い部分に現われてくる)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

[][][][]憲問第十四を読む(その29) 19:19 はてなブックマーク - 憲問第十四を読む(その29) - 蜀犬 日に吠ゆ

為すべからざるを知りて、これを為さんとする

 憲問第十四(333~379)

373 子路宿於石門。晨門曰。奚自。子路曰。自孔氏。曰。是知其不可而為之者与。

(訓)子路、石門に宿す。晨門曰く、奚(いず)れよりする。子路曰く、孔氏よりす。曰く、是れ其の(為す)べからざるを知りて、これを為さんとする者か。

(新)子路が魯の郭門、石門の外に泊った。翌朝、門を入るときに朝係りの門番が尋ねた。何処の者だ。子路曰く、孔氏の者だ。曰く、ははん、到底実現できない理想をかかげて無理と知りながら、努力してやめられない彼の人のことか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 石門は、魯の場外の門としますが、宇野先生だけは、どこか外国を想定している様子。

 子路が孔子に従って天下を廻り歩いた時に、偶石門という処に宿った。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 石の門なんて何処にでもあるので、どこかに特定したくなかったのでしょうか。


 道家風の隠士から、ちょっとからかわれたという話。どうしてこれを『論語』に入れておいたのかは謎。



為すべからざるを知りて、これを為さんとする

 憲問第十四(333~379)

374 子撃磬於衛。有荷蕢而過孔氏之門者。曰。有心哉。撃磬乎。既而曰。鄙哉。硜硜乎。莫己知也。斯已而已矣。深則厲。浅則掲。子曰。果哉。末之難矣。

(訓)子、磬を衛に撃つ。蕢(ふご)を荷いて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く、心あるかな、磬を撃つや、と。既にして曰く、鄙なるかな。硜硜(こうこう)たるや。己を知るなくんば、斯に已(や)まんのみ。深ければ厲(ころもぬ)ぎ、浅ければ掲(すそかか)ぐ、ものぞ。子曰く、果なるかな。これを難しとする末(な)きなり。

(新)孔子が衛において、あるとき磬の楽器を打ち鳴らしていた。蕢を荷って孔氏の門前を過ぎる人があった。曰く、はて、何か意味ありげだな。あの磬の音は。暫くしてからまた言った。なんだつまらない。ぶつぶつ言う不平声だったのか。誰も認めてくれなかったら、自分の方から引っこむまでじゃないか。深い川を渡るには着物を脱ぎ、浅瀬を渡るには裾からげ、という歌のとおりさ。子曰く、そうだ、その果(はだか)になる方だ。此方はちゃんと前からやってるよ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 果哉の果を従来はほとんど凡ての注釈家は、果敢、果断の果と読んできたから、意味が少しも通らない。しかし果にラ音があり、裸に通ずる位のことを知らなかったはずがない。思うにこの章は、どこか道家的臭味があり、殊に裸生活は道家の讃美したがるところなので、儒教派注釈家は殊更に異を立てて、果断の果の意味で無理に押し切ってきたのであろう。ここに訓詁学の限界が見られる。

 深則厲、浅則掲の句は、詩経、邶風、匏有苦葉の中に見えている。末之難矣、は文字どおりには、そんあんことは少しもむつかしいことではない、の意。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 詩経国風

34 匏有苦葉(ひさごの葉はにがい)

1 匏有苦葉 jiap

 濟有深渉 ajiap

 深則厲 liat

 淺則掲 kiat


 匏に苦葉あり

 濟(わたり)に深き渉あり

 深ければ則ち厲し

 淺ければ則ち掲ぐ


 ひさごの葉はにがい

 わたしばの水は深い

 深ければはだかでわたる

 淺ければからげてわたる

白川静訳注『詩経国風』東洋文庫 平凡社

 儒家が、「孔夫子を裸にはできんわなあ」という解釈は面白いですね。孔子自身は、「俺は、裸だよ」と言っているのに。ジャイアンも「おういみんな 服をぬげばいいんだ!」と言ってました。関係ない。

 「孔氏」と書くとき、道家を意識して孔子とその後を継ぐものたち、という含みがあるのでしょうか。