蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-25

[][][][]衛霊公第十五を読む(その1) 17:26 はてなブックマーク - 衛霊公第十五を読む(その1) - 蜀犬 日に吠ゆ

君子固より窮す

 衛霊公第十五(380~420)

380 衛霊公問陳於孔子。孔子対曰。俎豆之事。則嘗聞之矣。軍旅之事。未之学也。明日遂行。在陳絶糧。従者病。莫能興。子路慍見曰。君子亦有窮乎。子曰。君子固窮。小人窮斯濫矣。

(訓)衛の霊公、陳を孔子に問う。孔子対えて曰く、俎豆の事は則ち嘗てこれを聞けり。軍旅のことは未だ学ばざるなり、と。明日遂に行(さ)る。陳にありて糧を絶つ。従者病み、能く興(た)つことなし。子路慍(いか)り見(まみ)えて曰く、君子も亦た窮するあるか。子曰く、君子固より窮す。小人は窮すれば斯に濫す。

(新)衛の霊公が戦術のことを孔子に尋ねた。孔子対えて曰く、文化に関したことは少しは勉強してみました。しかし戦争のことは学ぼうともしませんでした、と。その明日、前から考えていたように決心して立ち退いた。陳にきたとき食糧がつきてしまい、門人の従う者は病んで立上がれない者もあった。子路が腹を立て孔子に面と向って言った。徳のある君子もこんなに落ちぶれるものでしょうか。子曰く、君子だって落ちぶれるさ。ただ小人のように取りみだすことがないだけだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 おばけなんてないさ。空だってとべるさ。君子だって落ちぶれるさ。

 それはとにかく、同じ章の中で、「問陳」は「陣」に通じさせて、「在陳」は地名であるというのは、つまりどちらもイレギュラーな用字であるわけで、私の趣味に合いません。金谷先生や吉川先生の本は「衛霊公問う」と「陳に在(いま)して」の二句に分けますが、それでもいいと思います。


 孔子もしかし厳しいですね。亜聖孟子などは「王様は戦争がお好きなようですが、ひとつ戦争を例にとりましょう」(梁恵王上)くらいのいなしをしたものですが。もちろん、夫子と衛霊公はすでに何度かにわたって議論を重ね、それがことごとく伝わらなかった、絶望の内に捨て台詞をのこして衛の国を立ち去った、と言うことなのでしょうけれども、「軍旅のことは知りません!」て。足食足兵を実現するのも君子の行いなのですから、そういう方面から話をしてもよかったのではないでしょうか。しかしやはり、そんなはなしを出来るような霊公ではなかったのでしょうね。


 後半の「陳蔡の難」あたりは、孔子の事蹟の中でもクライマックスにちかい事件ですね。

 陳とはいまの河南省陳州を首都とする小国である。衛、すなわち河南省の淇県を首都とするくにを立ち去った孔子は、黄河を渡って東南にゆき、山東省定陶県を首都とする小国曹に行ったが、曹が受けつけないので、さらに西南し、河南省商邱県を首都とする宋へ行き、そこで子罕第九に見える匡の法難、さらに西南して陳国の領土へ入ったところ、あたかも陳は、呉の侵略を受けて飢饉であったため、食糧を絶たねばならなかった。以上を、古注に引く孔安国は、「陳に在りて糧を絶つ」の説明とする。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

「史記」の説明はちがい、南方の大国の楚が、孔子を招聘しようとする意向があるのを、陳および同様に小国である蔡が聞き知り、孔子の任用によって楚がさらに強大となることをおそれ、孔子の楚への旅行を阻止するため、軍隊を出して包囲した。そのために食糧を絶ったのだとする。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 しかし、孔子は慌てず騒がず、琴を弾いていたので子路が矛をとって舞う。中島敦『弟子』では印象的なシーンですが、子路、躍ってませんね。また後で出てくるのでしょうか。