蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-27

[][][][]衛霊公第十五を読む(その3) 20:19 はてなブックマーク - 衛霊公第十五を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

徳を知る者は鮮い

 衛霊公第十五(380~420)

382 子曰。由知徳者鮮矣。

(訓)子曰く、由や、徳を知る者は鮮いかな。

(新)子曰く、由よ、修養の大切なことを悟る者は少いな。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この本文には疑問がある。子路に限らず弟子たちに孔子がよびかける時は、多く由也、と也を添えるがここにはない。もっとも33に、由誨女知之乎、という例があるのは、この場合はすぐ次に女で受けているからである。論語の中の子曰、は必ず何人かに向って言った言葉であるが、それが一般的な教訓である場合は、その対話相手を一々列挙することなく省略してしまう。今の場合、孔子の教訓の内容は、知徳者鮮矣、という極めて一般的な事実を述べたに過ぎず、特にそれを子路に語りかけたことを明かにする必要はなさそうに思える。一方、鮮は非常に少いことで強い言葉なので、多くの場合、これに応じた副詞を伴って用いられる。2の例、好犯上者鮮矣、好んで上を犯す者は鮮し、あるいは上を犯すを好む者と訓じても同じ。そこでこの場合、由は能の譌(あやまり)ではないかという疑いが生ずる。字画の差は大差あるが、もし能という字が剥落した場合、縦横に直角に交わる線が多いので、容易に由という字が造られる。能く徳を知るものは鮮いかな、となれば口調もよく、文章がずっとすっきりする。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 これは、根拠のない憶測といわざるをえません。


 ところで、「人知らずして慍おらず」の夫子がこんなこと言っていいのでしょうか。徳なんて言っていますが、結局自分が受け入れられないことを根に持っているのでしょうか。


 わたしは、ここに、子路の名前が出ることの是非は分かりませんが、もしも出てきてよいとするなら、子路へのアドバイスを感じます。すなわち、君子の個人的な心構えとしては「人知らずして慍おらず」でよいのですが、現実主義、実践重視の儒家ですから、立身出世しなければなりません。そのとき、世間にあまり期待するなよ、徳のことを知らない世間に媚びては、堯舜の理想を見失ってしまうよ、と。そういう忠告だったのではないでしょうか。