蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-28

[][][][]衛霊公第十五を読む(その4) 20:19 はてなブックマーク - 衛霊公第十五を読む(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

言う

 衛霊公第十五(380~420)

383 子曰。無為而治者。其舜也与。其何為哉。恭己正南面而已矣。

(訓)子曰く、為すなくして治むる者は、其れ舜なるか。夫れ何をか為すや。己を恭しくして、南面を正すのみ。

(新)子曰く、作為なしで自然のままに政治を行ったのは、恐らく帝舜であろう。最小限にしたことはと言えば、自己の姿勢をあらためた上、天子の南面する座にきちんと坐っただけだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 無為にして天下を治めるという思想は、道家において最も顕著に現われる。このような道家的思想が論語の中に見られるについて、二つの異った立場をとるのが可能である。一はこのような思想もやはり始めから儒教に内在しており、それが発展、分離して道家の学説になったと考える。他は論語というものが、時代と共に成長し、後出の思想をも取り入れて現今の形になったと考える。私としては第二の立場に共鳴する。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「下論」はあとから成立した、ということもあるのでしょう。しかし、この「無為」という言葉は、たしかに道家の良く使う語ですが、同じような文脈で使われているのでしょうか。

 為政第二北辰の其所に居りて」、衆星これに従う。や子路第十三「其の身正しければ、令せずして行わる」、などに見られる為政者の態度は、たしかに何事かを為しているようには見えないかも知れませんが、かわりに士大夫がこまごました政事を実行しているわけです。おそらくそれは、道家の言うような「無為」の状態とは程遠いことでしょう。

 泰伯第八「其の位にあらざれば、其の政を謀らず」や憲問第十四「同前」の言葉にありますように、越権行為が戒められる儒教では同じように君主が小官の雑事にまであれこれ口を出さない、そういう意味のことを、孔子は言ったのではないでしょうか。

 思えば舜も、帝王となる前は治水事業で功績をあげたわけで、そうした個人の実績という意味では「無為」ではありませんでした。帝位についたからこそ「無為」で「正南面」し、以て国を治めたのでしょう。