蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-29

ドラえもん(1970)

[][]無軌道~~ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』中公文庫(その3) 21:31 はてなブックマーク - 無軌道~~ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』中公文庫(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

 第十四章まで読みました。

ボートの三人男 犬は勘定に入れません

第十二章

ヘンリー八世とアン・ブリン 恋人たちと同じ家に住むことの不利益 イギリス国民の試煉のとき 絵画的なものを求めて 家なき大人 ハリス、死を決意する 天使がやって来る ハリスがとつぜん喜んだ結果 ちょっとした夕食昼食 高価な芥子 恐ろしいビール メイドンヘッド 帆走 三人の漁師たち 呪われた男たち


第十三章

マーロウ ビシャムの僧院 メドメナム僧団の僧たち フォックステリアの破廉恥なる行為 モンモランシー、老猫を殺害し得ると考える されどその結果は…… マーロウからの出発 威風堂々たる行列 スチーム・ランチを困らせる法 河水を飲むことへの拒否 平和な犬 ハリスおよびパイの異様な消滅


第十四章

ウォーグレイブ 蝋人形 ソニング ぼくたちのシチュウ モンモランシーがからかう モンモランシーと湯沸しとの格闘 ジョージのバンジョー 反対に出会う アマチュア音楽における困難 風笛演奏の練習 夕食の後のハリスの悲しみ ジョージと僕が散歩に出かける 飢えかつ濡れて帰る ハリスの挙動不審 ハリスと白鳥の物語 ハリスの眠られぬ夜

ジェローム『ボートの三人男』中公文庫

 しかし、地理がわからないので気づきませんでしたが、ロンドンからテムズ河を、どうして遡るのでしょうか? 川下りをして、下で業者に船を返せばいいとか、そういう商売は発達しなかったのでしょうかね。



[][][]「藤子・F・不二雄」『こだわり人物伝』2010年 4-5月 日本放送出版協会 19:18 はてなブックマーク - 「藤子・F・不二雄」『こだわり人物伝』2010年 4-5月 日本放送出版協会 - 蜀犬 日に吠ゆ

 「愛しり」がどんどんファンタジーと化すなか(なんでもトキワ荘からでないまま漫画界は昭和40年代に突入間近だそうです)、たまにはノンフィクションでバランスをとっておかないとまずいわけです。テレビは多分見ませんけれども。

 藤子・F・不二雄略年譜つき! うんこれだよこれこれ。って、なにが「これ」なんだろう。


[][][]蛇の章を読む(その45) 20:45 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その45) - 蜀犬 日に吠ゆ

愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす

第一 蛇の章

一一、 勝 利

一九三 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、――これは体の動作である。

一九四 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのままに見られることがない。

一九五 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、

一九六 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏(あぶら)がある。

一九七 またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、

一九八 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

一九九 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註

 勝利――この教えの別名を「身体を厭うことの教え」(Kayavicchandanika-sutta)という。ここでは愛欲に対する勝利の道を説いているので、「勝利についての教え」と称するのであろう。

 ブッダでも、ジャイナ教の祖師でも、ジナ(勝利者 jina)と呼ばれている。煩悩に打ち克った人であるから、「勝利者」と呼ばれるのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 せっかく仏教みたいになってきたと思ったら、またジャイナ教になってしまいました。この世を不浄と見なすために、以下、人間の肉体の不浄であることを順番に説明します。

一九三 仏教では普通は行・住・坐・臥の四威儀(iryapatha)として人間の行動をまっとめるが、ここでは詩人的感覚で述べていて、まだこの慣用的表現のできる以前の段階を示している。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

一九六 アショーカ王以前に、すでに人体に関する解剖的知識が相当に詳しく成立していたことが解る。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 解剖の知識は、食肉の習慣からの類推ではないでしょうか、と漢字を念頭において考えてみます。


一九七 九つの孔――「両目の孔、両耳の孔、両鼻孔、口、排泄の道、生殖の道をいう」と註する(Pj.)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「渾沌の徳」! いよいよ老荘思想が混じり出しましたか!

内篇

応帝王篇第七 七

 南海の帝を鯈(しゅく)といい、北海の帝を忽といい、中央の帝を渾沌といった。鯈と忽とはときどき渾沌の土地で出あったが、渾沌はとても手厚く彼らをもてなした。鯈と忽とはその渾沌の恩に報いようと相談し、「人間にはだれにも(目と耳と鼻と口との)七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この渾沌だけはそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと渾沌は死んでしまった。

金谷治訳注『荘子』第一冊 岩波文庫

 「七つの穴」は、「七竅(しちきょう)」。

荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

 ただし、

渾沌の徳。

 渾沌之徳  (内篇 應帝王)

 無為無策の徳。

 南海の神を鯈といい、北海の神を忽といい、中の神を渾沌という。あるとき、鯈と忽とが渾沌の土地に遊びに来た。渾沌は喜んでこれを待遇したので、鯈と忽は、その厚意に返礼しようということになった。元来、渾沌は文字通り目も鼻も口もないから、あれでは不自由であろう。普通の人間同様に穴をあけてやろうと、目や鼻や口など九つの穴を全部あけてやった。すると渾沌は死んでしまった。なぜなら、目も鼻も口もなにもないのが渾沌だからである。

諸橋徹次『中国古典名言辞典』講談社学術文庫

 諸橋先生は穴を二つ足しているんですよねえ…… 仏教にかぶれてしまったのでしょうか。

 とにかく、からだに穴があいているなんて、汚らわしいことこの上ない! というのが師ブッダの到達した境地である、と。


一九九 空洞――susira. 恐らく頭蓋は出口をもたないから、九つの孔のうちには数えられていないし、汚いものを外へ出すことはない。しかし「脳髄にみちている」といい、やはり脳髄というものは汚いものだと考えていたのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫


[][][][]衛霊公第十五を読む(その5) 20:19 はてなブックマーク - 衛霊公第十五を読む(その5) - 蜀犬 日に吠ゆ

言うこと忠信にして、行い篤敬ならば

 衛霊公第十五(380~420)

384 子張問行。子曰。言忠信。行篤敬。雖蛮貊之邦行矣。言不忠信。行不篤敬。雖州里。行乎哉。立則見其参於前也。在輿則見其倚於衡也。夫然後行。子張書諸紳。

(訓)子張、行わるることを問う。子曰く、言うこと忠信にして、行い篤敬ならば、蛮貊の邦と雖も行われん。言うこと忠信ならず、行い篤敬ならずんば、州里と雖も行われんや。立てば其の前に参(まじ)わるを見、輿(よ)にありては其の衡に倚(よ)るを見て、夫れ然る後に行われん。子張これを紳に書す。

(新)子張が普遍妥当なる道を尋ねた。子曰く、言忠信、行篤敬の六字、言葉に誠意があり、行為に誠実のあることだ。それなら世界中、たとえ夷狄の国へ行っても妥当する。これに反して言葉に誠意がなく、行為が誠実でなかったなら生まれ故郷の町内でも相手にされまい。立てばこの六字が目の前にちらつき、車に乗ればこの六字が車の前の横木に貼りつけられていると思うほど頭の中に叩きこまれるようになって、始めてこの道が生きてくるのだ。子張はこの六字を帯の端に書きつけて、日常それを眺めることにした。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「立則見其参於前也。在輿則見其倚於衡也」を、宮崎先生は「戒めの六文字」が目の前に浮かびあがってくる、と解釈しますが、他の本では、「まごころやつつしみといった概念」そのものが目のまわりに実体を持ち出す、とします。どっちにしても、正気とは思えません。

 つぎの「立てば則ち」云云は、難解である。忠信の言語、篤敬の行為を、つねに思いつづけ、ただ立っているときでも、わが身の前にありありとそれがあるように思い、車に乗れば車の前の横木に、それがよりかかっているように思う。そういうふうに行住座臥、忠信と篤敬を思いつづけてこそ、信念なり学説は伝播する、というふうに、古注も新注も読んでいるが、果してそれでよろしいかどうか。徂徠は別の説を立てるが、わずらわしさを避けて挙げない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 幻覚ですよねえ。


直なるかな、史魚。君子なるかな、蘧伯玉。

 衛霊公第十五(380~420)

385 子曰。直哉史魚。邦有道如矢。邦無道如矢。君子哉蘧伯玉。邦有道則仕。邦無道則可巻而懐之。

(訓)子曰く、直なるかな、史魚。邦に道あれば矢の如く、邦に道なきも矢の如し。君子なるかな、蘧伯玉。邦に道あれば仕え、邦に道なければ、巻いてこれを懐(ふところ)にすべし。

(新)衛の国の記録掛りの史魚はなんと真直ぐな性分だ。国に善い点があれば矢の進むように真直ぐに書き、国に悪い点があっても矢の進むように真直ぐに書く。偉いのは蘧伯玉だ。君主が道を尊べば出て仕え、君子が無道なれば、ぐるっと巻いて懐に入るように引っこむ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 蘧伯玉は、孔子も一目置いた衛の大夫。孔子は衛霊公に絶望して国を去ったくらいですから、まあ当時は無道だったといっていいのでしょうねえ。南子の専横が行われて。ということは、史魚は矢のようにズバズバ霊公の無道ぶりを書きつらね、蘧伯玉はひっそりと隠れ住んでいたことと思われます。


 史魚の直はまだ君子の道を尽くしていない。蘧伯玉のようにして初めて乱世に処して禍いを免れることができる。史魚の矢のようなのは、巻いてこれを懐にしようとしても懐にすることができないのである。(楊時)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 直言することで君主が改まるのであれば、それはそうすべきでしょうけれども、そうでなければ、君臣がいたずらにいがみあうだけで、治国平天下の実現などできるはずもありません。史魚などは、「しかし、自分の職責は全うしなければならない」というかもしれませんが、結局それは国の乱れている現実を無視した自己満足や、それを治めることができないのを君主の責任にして自己弁護をはかっていることになりかねません。述而第七「これを用うれば則ち行い、これを舎けば則ち蔵る」とありますが、君子の本領は出処進退の自由自在さにあります。地位にこだわってはいけないのです。


知者は人を失わず、また言を失わず

 衛霊公第十五(380~420)

386 子曰。可与言而不与之言。失人。不可与言而与之言。失言。知者不失人。亦不失言。

(訓)子曰く、与(とも)に言うべくしてこれを言わざれば、人を失う。与に言うべからずしてこれと言えば、言を失う。知者は人を失わず、また言を失わず。

(新)子曰く、信頼のおける友人だと思ったなら、次第に秘密なことをも打明けるようにしなければ、逃げられる。信頼する価値のない人に、うっかり秘密なことを話すと、失言問題を起して災難を蒙る。知者とは親友に逃げられることもなく、人から裏切られることもないものだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 処世術。解釈は分かれるようですが、言うべき時と言うべきでない時をみきわめる知性を重要視する、ということでしょう。