蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-29

ドラえもん(1970)

[][][]蛇の章を読む(その45) 20:45 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その45) - 蜀犬 日に吠ゆ

愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす

第一 蛇の章

一一、 勝 利

一九三 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、――これは体の動作である。

一九四 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのままに見られることがない。

一九五 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、

一九六 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏(あぶら)がある。

一九七 またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、

一九八 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

一九九 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註

 勝利――この教えの別名を「身体を厭うことの教え」(Kayavicchandanika-sutta)という。ここでは愛欲に対する勝利の道を説いているので、「勝利についての教え」と称するのであろう。

 ブッダでも、ジャイナ教の祖師でも、ジナ(勝利者 jina)と呼ばれている。煩悩に打ち克った人であるから、「勝利者」と呼ばれるのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 せっかく仏教みたいになってきたと思ったら、またジャイナ教になってしまいました。この世を不浄と見なすために、以下、人間の肉体の不浄であることを順番に説明します。

一九三 仏教では普通は行・住・坐・臥の四威儀(iryapatha)として人間の行動をまっとめるが、ここでは詩人的感覚で述べていて、まだこの慣用的表現のできる以前の段階を示している。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

一九六 アショーカ王以前に、すでに人体に関する解剖的知識が相当に詳しく成立していたことが解る。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 解剖の知識は、食肉の習慣からの類推ではないでしょうか、と漢字を念頭において考えてみます。


一九七 九つの孔――「両目の孔、両耳の孔、両鼻孔、口、排泄の道、生殖の道をいう」と註する(Pj.)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「渾沌の徳」! いよいよ老荘思想が混じり出しましたか!

内篇

応帝王篇第七 七

 南海の帝を鯈(しゅく)といい、北海の帝を忽といい、中央の帝を渾沌といった。鯈と忽とはときどき渾沌の土地で出あったが、渾沌はとても手厚く彼らをもてなした。鯈と忽とはその渾沌の恩に報いようと相談し、「人間にはだれにも(目と耳と鼻と口との)七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この渾沌だけはそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと渾沌は死んでしまった。

金谷治訳注『荘子』第一冊 岩波文庫

 「七つの穴」は、「七竅(しちきょう)」。

荘子 第一冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

荘子 第一冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

 ただし、

渾沌の徳。

 渾沌之徳  (内篇 應帝王)

 無為無策の徳。

 南海の神を鯈といい、北海の神を忽といい、中の神を渾沌という。あるとき、鯈と忽とが渾沌の土地に遊びに来た。渾沌は喜んでこれを待遇したので、鯈と忽は、その厚意に返礼しようということになった。元来、渾沌は文字通り目も鼻も口もないから、あれでは不自由であろう。普通の人間同様に穴をあけてやろうと、目や鼻や口など九つの穴を全部あけてやった。すると渾沌は死んでしまった。なぜなら、目も鼻も口もなにもないのが渾沌だからである。

諸橋徹次『中国古典名言辞典』講談社学術文庫

 諸橋先生は穴を二つ足しているんですよねえ…… 仏教にかぶれてしまったのでしょうか。

 とにかく、からだに穴があいているなんて、汚らわしいことこの上ない! というのが師ブッダの到達した境地である、と。


一九九 空洞――susira. 恐らく頭蓋は出口をもたないから、九つの孔のうちには数えられていないし、汚いものを外へ出すことはない。しかし「脳髄にみちている」といい、やはり脳髄というものは汚いものだと考えていたのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫