蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-31

[][]ユーモアと称する邪悪~~ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』中公文庫(その4) 20:44 はてなブックマーク - ユーモアと称する邪悪~~ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』中公文庫(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

 読了。

ボートの三人男 犬は勘定に入れません

第十五章

家政についての一考察 仕事への愛 河の古強者は何をするか、そして何をしたと語るか 新しい世代の懐疑主義者 舟遊びの思い出 筏に乗る ジョージのスタイル 老いたる船頭の態度と方法 静かに、そして平和に 初心者 平底舟 悲しい事故 友情の喜び わが最初の帆走 なぜわれわれは溺死しなかったかという理由への推測


第十六章

レディング スチーム・ランチに曳いてもらう 小さなボートどもの怪しからぬ振舞 彼らはどんなふうにスチーム・ランチの邪魔をするか ジョージとハリス、またしても彼らの責務を回避する かなり陳腐な物語 ストリートリーとゴアリング


第十七章

洗濯日 魚と釣師 釣りの技術について 良心的な釣師 魚についてのエピソード


第十八章

水閘(ロック) ジョージとぼくが写真に撮られた話 ウォリングフォード ドーチェスターアビンドン 一家族の首長 難所 河の空気がいかに人間の品性を毒するか


第十九章

オクスフォード モンモランシーの天国観 貸しボートの美点と長所 「テムズの誇り」号 天候一変 テムズの別の相 愉快な夜ではない 手に入れられないものへの憧れ 楽しき雑談の果てに ジョージ、バンジョーを弾く 悲しきメロディー またもや雨 遁走 夕食と乾杯

ジェローム『ボートの三人男』中公文庫

 ひどい。総じて言えることは、ユーモアと称するものは、はた迷惑な自己満足であり、他者を軽んじることを隠そうともしない物言いであり、とんでもない邪悪である、ということですね。そして、そのことを知っていながら、それを押しとどめることができないところに、ユーモアのユーモアである所以があります。ようするに、悪ふざけが過ぎるってことなんですけれども。

ボートの三人男 (中公文庫)

ボートの三人男 (中公文庫)


感想のまとめ

その1無内容

その2無意味

その3無軌道

その4ユーモアと称する邪悪

 私のタイトルもひどいなあ。こういう悪ふざけを面白いと思いこんでいるのが、ユーモアのたちの悪い部分。


[][]シャルル・アズナブール『グレイテスト・ヒッツ・フォー・ジャパン』EMI 19:08 はてなブックマーク - シャルル・アズナブール『グレイテスト・ヒッツ・フォー・ジャパン』EMI - 蜀犬 日に吠ゆ

 シャルル・アズナブールはフランスの歌手。大御所らしいのですが詳しく知らない。

グレイテスト・ヒッツ・フォー・ジャパン

グレイテスト・ヒッツ・フォー・ジャパン


[][][]蛇の章を読む(その46) 21:32 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その46) - 蜀犬 日に吠ゆ

自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば

第一 蛇の章

一一、 勝 利

二〇〇 また身体が死んで臥すときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

二〇一 犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄(ついば)む。

二〇二 この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

二〇三 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。

二〇四 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

二〇五 人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

二〇六 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註

二〇〇 墓場に棄てられ――当時は林の中の墓場(smasana)に屍体を捨て去るという葬法が一般的であったことが解る。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 埋葬しなかったのですね。なんとなくガンガーに流してしまうイメージでしたが、林の中に投げ棄てて鳥獣の為すがままにしていたとは。輪廻思想は魂の抜け殻を大事にしないためでしょうか。

二〇二 完全に了解する――parijanati. それの名詞形はparinna であるが、この語はジャイナ教においては、同時に「断ずる」「すっかり捨ててしまう」という意味がある。最初期の仏典においても、同様の意味合いをもっていた、と考えられる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 了解したことは、もはやその人を悩ませることがないから、すっかり捨ててしまったことと同じになるのでしょうか。

二〇三 「今日はひとの身、明日はわが身」と観ずるのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 繰り返すようですが仏教は、本当に他者の内面とか気にしませんね。まあそれが合理的な解釈なのかもしれませんが、しょせん他者のことなど理解できないのだからいちいち気にかけないというのは、社会性を重んじる儒教とは相容れない、その点善は工夫したものです。

二〇四 平安――santi(Skrt, santi).

二〇五 ……まもられている――parihirati (=pupphagandhadihi abhisamkharitiva parhirati. Pj.p.253).

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

[][][][]衛霊公第十五を読む(その7) 18:38 はてなブックマーク - 衛霊公第十五を読む(その7) - 蜀犬 日に吠ゆ

鄭声は淫にして、佞人は殆うし

 衛霊公第十五(380~420)

389 顔淵問為邦。子曰。行夏之時。乗殷之輅。服周之冕。楽則韶舞。放鄭声。遠佞人。鄭声淫。佞人殆。

(訓)顔淵、邦を為(おさ)めんことを問う。子曰く、夏の時を行い、殷の輅(ろ)に乗り、周の冕(かんむり)を服す。楽は則ち韶舞。鄭声を放ち、佞人を遠ざく。鄭声は淫にして、佞人は殆(あや)うし。

(新)顔淵が国を治める政事のやり方を尋ねた。子曰く、夏の時代の暦を用い、殷の時代の様式による馬車に乗り、周の制度による冠をかぶり、音楽は舜の時にできた韶の舞曲がよい。鄭の国に現在行われている俗曲を退け、口達者な人間は相手にしない。鄭の曲は下品だし、口達者は信用しがたいものだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 顔回が謙譲の美徳をかなぐり捨てて王となる道を問うのも驚きですが、何故か鄭国の批判になっているのも謎の章句。これは、陽貨第十七にも「鄭声の雅楽を乱すを悪む」とありますから、鄭の国の文化が乱れている、そういう話題の中での師弟の対話であったのではないかと思います。


 孔子は、顔淵に対して、乱れのない整った国のありかたを説明します。それが、「行夏之時。乗殷之輅。服周之冕。楽則韶舞。」

○夏の時=夏の暦法は歳の始めが春の始めになるようにしてあって、農業などには便利なのである。○殷の輅=輅は君の乗る大車。木製で、周のそれのように金玉で飾っていないけれども、臣下の車との差別がある。質朴で中を得たのを取ったのであろう。○周の冕=冕は祭服の冠である。冠の上に板があり、その前後に旒(たれ)がある。その制度は周に至って始めて完備した。小さいもので頭の上に被るのであるから、華美でも靡(おご)るとはいわれず、金はかかっても奢るには至らない。文(かざり)にして中を得たのを取ったのであろう。○韶舞=舜の楽で孔子が善く尽くせりと嘆美したもの。楽は舞を兼ねたものである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 韶の音楽については、

 八佾第三子、韶を謂う。美を尽くし、また善を尽せり。

 述而第七「子、斉にありて韶を聞く


 夏、殷、周の三王朝は、それぞれその文明に特色をもち、人間の文明の、重要な三つの形式であるという意識が、孔子にあったことは、上論為政第二の、「殷は夏の礼に因る。損益する所、知るべき也。周は殷の礼に因る。損益する所、知るべき也」、八佾第三の「夏の礼は吾れ能く之れを言う」、「殷の礼は吾れ能く之れを言う」、また「周は二代に監(かんが)む、郁郁乎として文なる哉、吾れは周に従わん」、などの示すところである。うち最後の「吾れは周に従わん」は、衛霊公篇のこの章と、矛盾を含みそうであるが、矛盾は「論語」のしばしば示すところであるから措いて論ぜぬとして、この章の言葉が、上論のそれらのいずれよりも、より多く窮屈に感ぜられるのは、やはり下論の言葉であるからだろう。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 そのおっしゃりようはひどいと思います。

為政第二十世知るべきか

八佾第三文献の足らざる

八佾第三郁郁として文なる哉