蜀犬 日に吠ゆ

2010-03-31

[][][]蛇の章を読む(その46) 21:32 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その46) - 蜀犬 日に吠ゆ

自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば

第一 蛇の章

一一、 勝 利

二〇〇 また身体が死んで臥すときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

二〇一 犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄(ついば)む。

二〇二 この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

二〇三 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。

二〇四 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

二〇五 人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

二〇六 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註

二〇〇 墓場に棄てられ――当時は林の中の墓場(smasana)に屍体を捨て去るという葬法が一般的であったことが解る。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 埋葬しなかったのですね。なんとなくガンガーに流してしまうイメージでしたが、林の中に投げ棄てて鳥獣の為すがままにしていたとは。輪廻思想は魂の抜け殻を大事にしないためでしょうか。

二〇二 完全に了解する――parijanati. それの名詞形はparinna であるが、この語はジャイナ教においては、同時に「断ずる」「すっかり捨ててしまう」という意味がある。最初期の仏典においても、同様の意味合いをもっていた、と考えられる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 了解したことは、もはやその人を悩ませることがないから、すっかり捨ててしまったことと同じになるのでしょうか。

二〇三 「今日はひとの身、明日はわが身」と観ずるのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 繰り返すようですが仏教は、本当に他者の内面とか気にしませんね。まあそれが合理的な解釈なのかもしれませんが、しょせん他者のことなど理解できないのだからいちいち気にかけないというのは、社会性を重んじる儒教とは相容れない、その点善は工夫したものです。

二〇四 平安――santi(Skrt, santi).

二〇五 ……まもられている――parihirati (=pupphagandhadihi abhisamkharitiva parhirati. Pj.p.253).

中村元『ブッダのことば』岩波文庫