蜀犬 日に吠ゆ

2010-04-04

[][][][]衛霊公第十五を読む(その11) 16:49 はてなブックマーク - 衛霊公第十五を読む(その11) - 蜀犬 日に吠ゆ

これを如何、これを如何と曰わざる者は

 衛霊公第十五(380~420)

394 子曰。不曰如之何。如之何者。吾末如之何也已矣。

(訓)子曰く、これを如何、これを如何と曰わざる者は、吾れこれを如何ともする末(な)きのみ。

(新)子曰く、これを如何しましょう、あれを如何しましょうかと尋ねてこない者は、私もそれを如何ともしようがない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 問題意識がないまま危機感だけあっても助けてやれない。


 この章は人が事をするのは熟慮詳審なるべき事を述べたのである。

 妄りに我意に任せて事を行う者には善言も入り難くこれがために謀ることができないのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 宇野先生はそうおっしゃいますが、私は、もっと深刻な話だと思いますね。

 私はこの章句が、君子たるべき立場の者が、「事をする」以前のところでとどまっていることを憂慮した孔子の言葉なのだと思います。孔子の教団に参加できたのは、顔子淵や冉伯牛を例外として、多くは余裕のある家の子弟で、孔子と問題意識を共有できないぼんぼんが多くを占めたのではないでしょうか。

 保守本流というか、血筋で得をしている人間は「昔は良かった」言説を弄したがるわけですが、革命家孔子の思いは別にあったことでしょう。現代(春秋時代)の、閉塞感を吹き飛ばす人材は、「このままじゃ駄目だ」と心底おもっている若者からしか出てこない。にもかかわらず弟子入りしてくるのは「極楽とんぼ」ばかりであることへ、孔子は失望を深めたのであろうこと、容易に想像できます。