蜀犬 日に吠ゆ

2010-04-05

[][][]蛇の章を読む(その48) 21:40 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その48) - 蜀犬 日に吠ゆ

諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る

第一 蛇の章

一二、 聖 者

二一一 あらゆるものにうち勝ち、あらゆるものを知り、いとも聡明で、あらゆる事物に汚されることなく、あらゆるものを捨て、妄執が滅びて解脱した人、――諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二一二 智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、――諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二一三 独り歩み、怠ることのない聖者、非難と賞讃とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように他人に導かれることなく、他人を導く人、――諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二一四 他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、――諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二一五 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正をつまびらかに考察している人、――諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二一六 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 もう同じようなことの繰り返しですね。

 「水に汚されない蓮のように」ということは、だいたい水の中にはいると汚されるということでしょうか。沐浴で身を清めるのではないのでしょうか。

 いちおう註。

二一四 柱――河岸、池などの岸辺(tittha)で人の沐浴するところに、四角或いは八角の柱を建て、貴い家の人でも、賤しい家の人でも、その柱に身体をこすりつけて洗う。しかしその柱は傲らずへり下らないのをいう(Pj.)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 インドには変わった習慣がありますね(日本中心主義)。沐浴し、柱に身体をこすりつけて清めるのでしょうか。日常の身体洗いと宗教的な沐浴はまた異なるのでしょうか。

 しかし、その柱が「傲らずへり下らない」というのはどういうことなのか判然としません。柱は柱で立ってるだけでしょう。まあそういうことなのでしょうけれども、譬喩としてうまいのか分かりません。


二一五 真直ぐにみずから安立し――原語(thitatta)は第三二八、三五九、三七〇、四七七、五一九詩にも出てくる。ジャイナ聖典にも thiy' appa として出てくる。

 正と不正を―― visamam saman ca. 'right and wrong'(Chalmers). 原語から見ると、すべて他のものに対して「平らか」であるのが正であり、「平らかでない」のが不正なのである。西洋人の考える(正)(不正)とは、少しく喰い違うところもあると考えられる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「平らかである」というのは、例えば天秤ばかりのようなイメージなのでしょうか。のちの八正道などはそういうバランスの問題でもありましたからね。

 しかしまたジャイナ教に逆戻りしそうな気配。


二一六 これは、現代でも大きな意味をもっている生活信条であろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 なにかを「しない」ということも、確かに大切だとは思いますが、そしてそれは実践するのが困難であろうとは思いますが、それでも「その先」のことを考えたくなってしまうものですよね。仏教は、それを押しとどめるのですね。だから、「賞讃にも心を動かさない」、「善も悪もなさない」という境地を大切にするのですね。