蜀犬 日に吠ゆ

2010-04-09

[][][][]オペレーション・キャッチ・ザ・スリーピング・ドラゴン~~酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫(その2) 21:42 はてなブックマーク - オペレーション・キャッチ・ザ・スリーピング・ドラゴン~~酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

 消えてしまった部分を書き直す。

 臥竜出廬のあたりから、酒見先生のツッコミはどんどん普通の、常識的なものになってゆきます。それは何故かというと、『演義』の方のテンションが異常なまでに揚がってしまいむちゃくちゃな展開を繰り出してくるため、ツッコミは常識的にならざるをえないのです。しかし、普通の『三国志』ワールドでは、こうした異常な展開を当然ととらえて幾百年を過ごしてきたのですから、常識的なツッコミが、むしろ異常に見えてしまう…… まあ、筆の滑りは酒見先生もおあいこでしょうか。

孔明、三顧に臨み、隆中、歌劇場と化す

 『三国志演義』の第三十六回から第三十八回まで異例の長さを費やした臥竜出廬のはじまりである。第三十四回からしつこく伏線が張られていることも勘定に入れれば、なんと五回にわたる花道の長さである。ゴージャス・スーパースターは最高の演出で迎えられ、スモークがたかれ、スポットライト、七色のレーザー光線の交錯のきらめく中で華々しく登場しなければへそを曲げてしまう。『三国志』中、最大のブルシット、我儘役者といっても過言ではない。

酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫 p490-

 というわけで、酒見先生もこの宣言をしてから150頁ちかく出廬のくだりをツッコミ続けるのですから尋常ではありません。

孔明、三顧に臨み、隆中、歌劇場と化す

 じつのところわたしは臥竜出廬の経緯、諸葛孔明、なにゆえ農村の一変人、海の物とも山の物ともわからない若輩者が、劉備玄徳、こちらも明るい未来がまったく見えない弱小軍閥(やくざもの)の親分に仕えるに至ったか……について、知りたいと思うところは大であるが、さんごくし、それは言わない約束でしょ、とばかりにそっとしておきたい気持ちもまた大である。

酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫 p491-

 水鏡先生のご推薦と、徐元直の言い残し、というだけでは確かにマユツバですよねえ。人材マニアの曹操であればともかく、劉玄徳がこんなにこだわったのって、臥竜先生ぐらいですからねえ。趙雲とか、馬超とか、ほんとにいつの間に心をつかんだのか不思議。

孔明、三顧に臨み、隆中、歌劇場と化す

 いちど書いてしまえば、量子論的ブレがあろうがなかろうが、それは固定されてしまう。つまりはこの小説の中では既に起きてしまったこと、事実となってしまうわけである。

 固定しないでおけば、後になっても、ああだったろう、こうじゃないのか、あの研究者はこう片付けている、あの作家は触れもしない、ちょっと待ったそれは無茶すぎる、あり得ない、どこを調べたらそんなデタラメが出てくるんだ、等々、いろいろ想像して楽しむことができるわけだが、いったん書いてしまうと、読む人にわたしの解釈(つくり話)ではこうなっている、と思われても仕方がなくなってしまう。それに私の中でもなにかが固定されてしまう。言うなれば自由を失うのである。

 書かなければ無限の大海、大いなる可能性があるのである。書いてしまうと極めて限定されて窮屈になってしまう。

酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫 p491-

 いまさらそんな。それは小説家の宿業ではないかと思うのですけれども。つまり、頭の中は無限でも、言葉は、あるいは原稿用紙は有限であり、しかしわたしたちの内宇宙が外界と通じ合うためには、有限のメディアを通すしか手段がないわけで、言葉を使ってそれを最高の技術に高めるのが、小説家、もしくは広く文学者であると思うんですけれどもね。三国志とは関係ない話。

泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部 (文春文庫)