蜀犬 日に吠ゆ

2010-04-13

[][][][]美髯公~~酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫(その3) 21:42 はてなブックマーク - 美髯公~~酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

 寄り道、というか、関羽の話。

孔明、三顧に臨み、隆中、歌劇場と化す

関羽が張飛を押さえてずいと出た。後に”神”となり、帝号まで与えられ、子どもからお年寄りにまで人気抜群に信仰されることになる、この一介の武辺は、身の丈九尺(訳二メートル七センチ)、丹鳳の目、臥蚕の眉毛、顔は俵を二つ重ねたよう(どんな顔だ?)、二尺の美髯、声は釣り鐘ほど大きい鬼神の如きこの男が迫り来れば、何を悪いことをしていなくても、

「悪うございました! おゆるしくだされ!」

 と反射的に言って負け犬のように腹を上に向けて寝ころぶよりほかないだろう。関係者が、

「ここだけの話だが、ほんとうにヤバイのは張翼徳じゃねえ。関雲長の方だ。おれは見たんだ……」

 とひそかに囁き合っているのは公然の事実、不死身の殺戮マシーンであり、”春秋の義”とやらに反することに出会うとぶちキレて見境を無くすからまことに始末に負えない(でも劉備の不義だけは見て見ぬふりをする)。己を正義と確信する者が最も残虐になれる、という箴言も『春秋左氏伝』に書いておいて貰いたかったと青龍偃月刀のもと虫けら同然に撃殺された地下の人々は嘆いているだろう、たぶん。これでもし関羽に将才がなかったら、歴史には目的遂行のために他人の迷惑を顧みずひたすら殺戮を繰り返すターミネーターだと書かれてしまったろう(関羽と張飛の違いは、張飛は目的が無くても遂行するという点である)。

酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫 p554-
泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

 というわけで、正史を見てみましょう。

関張馬黄趙伝 第六

(関羽伝)

 関羽は字を雲長という。もとの字を長生といい、河東郡解県の人である。本籍から涿郡に出奔した。先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。

陳寿 井波律子訳『三国志』5 蜀書 ちくま学芸文庫

 まあ普通の人ですよね。劉備のもとで、張飛と出会ったのでしょうか。

関張馬黄趙伝 第六

(張飛伝)

 張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。

陳寿 井波律子訳『三国志』5 蜀書 ちくま学芸文庫

 先主伝にははじめ名前も出て来ません。

先主伝 第二

(先主伝)

 先主は読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた。身の丈七尺五寸、手を下げると膝にまでとどき、ふり返ると自分の耳を見ることができた。口数は少なく、よく人にへり下り、喜怒を顔にあらわさなかった。好んで天下の豪傑と交わったので、若者たちは争って彼に近づいた。中山の大商人張世平・蘇双らは、千金の資本をもって、馬を買いに涿郡に往き来していたが、先主を見て傑物だと考え、そこで彼に多くの金財をあたえた。先主はこのおかげで、資金を手に入れ、仲間をかり集めることができた。


 (後漢の)霊帝の末年、黄巾の賊が起り、州郡はおのおの義兵を挙げた。先主は仲間をひきつれ校尉の鄒靖に従って黄巾の賊を討伐し、手柄を立て、安喜の尉に任命された。

陳寿 井波律子訳『三国志』5 蜀書 ちくま学芸文庫

 「春秋の義」云々にかんしては、記述はありませんが、

関張馬黄趙伝 第六

(関羽伝)

 『江表伝』にいう。関羽は『春秋左氏伝』が好きで、暗記していただいたい全部口誦することができた。

陳寿 井波律子訳『三国志』5 蜀書 ちくま学芸文庫

 とありますから、かなりのインテリですね。どちらかというと「戦国の術策」が好きなんじゃねえの? という感じもします。

関張馬黄趙伝 第六

(関羽伝)

 『蜀記』にいう。そのむかし劉備は許にいたころ、曹公とともに狩猟をしたことがあった。狩猟のさなか、人々はばらばらになった。関羽は劉備に曹公を殺すように勧めたが、劉備は聞き入れなかった。夏口にいて、長江の岸辺を彷徨う身の上になると、関羽は腹を立てて、「先日、狩猟の最中に、もしも私の言葉に従っておられたならば、現在の苦しみはなかったはずですが」(略)

 臣裴松之は考える。(略)関羽が、もし万一、このように勧めて、劉備が聞き入れなかったのだとすれば、おそらく曹公の腹心の部下や親類縁者など、実に多くの仲間がいたのだから、前もって計画をねらず、とっさに行動に踏みきるわけにはいかなかったのである。

陳寿 井波律子訳『三国志』5 蜀書 ちくま学芸文庫

 罠を仕掛けるほどの陰険さはなかった、ということでしょうか。しかし建前は同盟中なのにいきなり殺そうとするあたり、「春秋の義」とどう折り合いをつけるのでしょうか。

 ところで関羽の戦い振りはというと、

単福、劉皇叔にからめとられて初陣に懲りる

 関羽は関羽で、庭の雑草を丁寧に一本一本抜くように、一般の兵ではなく隊長クラスの兵を選び探して殺している。関羽はヒラの兵卒は見逃して、えばって命令を叫んでいる、ちょっといい甲を着た奴が大嫌いなのだ。

酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』第壱部 文春文庫 p234-

 これの典拠はこれでしょうか。

関張馬黄趙伝 第六

(張飛伝)

 そのむかし、張飛の勇猛ぶりが関羽に次ぐものであったので、魏の謀臣程昱たちはみな関羽と張飛には一万人を相手にする力があると賞讃していた。関羽は兵卒を好遇したが、士大夫に対しては傲慢であり、張飛は君子(身分の高い人)を敬愛したが、小人(身分の低い人)にあわれみをかけることはなかった。

陳寿 井波律子訳『三国志』5 蜀書 ちくま学芸文庫

 まあ、身分ばかり高くて『左氏伝』も知らないような奴、腕っぷしも関羽の方が上なのですから尊敬したりへりくだったりする理由はありませんよねえ。


 中国の度量衡の話。関羽の身長「九尺」って、後漢時代だと一尺が約23センチだから二メートル七センチですが、講談が発達した宋元時代の一尺は30センチなんですよねえ。そしたら二メートル七〇センチか……それはなんぼなんでも無茶ですね。ということは、『演義』は後漢の度量衡で語られ、聴いていた民衆も頭の中で換算していたのでしょうか。高度ですね。

正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)


 関羽のすごいところは、死後。

怨霊から最高位の神へ

 北宋の頃、解に蛟(龍の一種)が現われて洪水を引き起こしていたとき、成仏後に神将となった関羽が降り立ち、ばっさりと退治した。関羽はときに天師道の張虚靖に使役される身の上で、魔怪退治に活躍させられる。天師道は道教の有力門派であり、ここにおいて関羽は道教に取り込まれたらしい。

 この時期の関羽はまだ位が低く「関元帥」と呼ばれる武力神でしかなかった。ただし同時に地獄を取り締まる閻魔大王のような仕事もしており、その場合は「鄷都馘魔元帥」である。またの名を「協天大帝関聖帝君」といい、儒教も『春秋左氏伝』を愛読していた関羽を捨て置かず、「文衡聖帝」と呼んで守護神とした。民間では親しく「関恩主」と呼んだ。

 関羽は神界で出世すると同時に人界でも出世し続ける。中国では時の政権が古人のよき行いを鑑みて地位をあげ、追号することが多く行われる。三国時代には劉禅が関羽を「壮繆公」に封じた。これは父を助けて功のあった関羽を称えて地を贈ったということで、意味は分かる。そののち数百年は音沙汰無かったが、関羽が神界で復活し「関元帥」となった頃には宋王朝からも「崇寧真君」というもはや神様扱いの追号を受けた。元の時代には「顕霊義勇武安英済王」を与えられ、ついに王となった。明代には当たり前に「関帝聖君」と呼ばれるようになり、とうとう帝位にのぼり、位が極まったのである。明末には「三界伏魔大帝神威雲天尊関聖帝君」が追号され、三界にわたる帝王であり、現実の皇帝よりも偉大になっている。生前、異常なまでに気位の高かった関羽も感涙して大満足するであろう。

 とどめは清代に贈られた「忠義神武霊佑仁勇威顕国保民誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」であるが、もう、どういうふうに偉いのか贈った者にも分からない、貰って嬉しいのかどうか聞きたくなるような称号である。清は太祖ヌルハチの挙兵以来、東北異民族ではあるものの、常に関羽の神助があっって戦勝し、清朝が興きるのに大恩があったという。よって王室の守護神として崇めることにした。清代には関帝廟のない村はないといわれるほどに全国的な信仰対象となった。

 かくて関羽は神界において横綱級、人界における評価も”文廟の孔子””武廟の関羽”と決定。こういう相手に商売繁盛などを祈願していいものか、と悩んでしまうほどの偉大さだ。

酒見賢一『中国雑話 中国的思想』文春新書
中国雑話 中国的思想 (文春新書)

中国雑話 中国的思想 (文春新書)


 関羽と張飛の違いについて、井波先生からも一言。

 劉備という人はこの後も一事が万事この調子で、およそ自分から何かを積極的に仕掛けるということがない。主に前半は関羽・張飛の、後半は軍師諸葛亮の意見に従い、いわれるままに動いている感があります。たいていの場合、張飛がすぐに「殺してしまえ」と逆上し、関羽が冷静に「いま息の根を止めておくべきだ」と助言する。

井波律子『中国の五大小説』上 岩波新書

 一緒や! 即決しても考えても結論は一緒!



[][][]蛇の章を読む(その48) 21:40 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その48) - 蜀犬 日に吠ゆ

諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る

第一 蛇の章

一二、 聖 者

二一七 他人から与えられたもので生活し、(容器の)上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二一八 淫欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者――かれを諸々の賢者は(真の)(聖者)であると知る。

二一九 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、――諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二二〇 両者は住所も生活も隔たっていて、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをもわがものとみなす執著がない。在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。

二二一 譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。


(蛇の章)第一おわる


まとめの句

 蛇とダニヤと(犀の)角と耕す人と、チュンダと破滅と賤しい人と、慈しみを修めることと雪山に住む者とアーラヴァカと、勝利とまた聖者と、――

 これらの十二の経が「蛇の章」と言われる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註。

二一七 上の部分からの食物――瓶から最初に取り出した食物(Pj.)。

 中ほどからの食物――中ほどまで取り出された瓶から取り出した食物(Pj.)

 残りの食物――瓶の中に一匙か二匙か残っているのを取り出した食物(Pj.)

 おとしめて罵る――nipaccavadi(=dayakam nipatetva appiyavacanani vatta. Pj. p.272).

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 托鉢して廻るときに、檀那がどこからどうやって食物を取り出すのか、じっくりと観察しているブッダの姿は、少し陰険であるような気もしますが、まあ腹に一物あってもおくびにも出さないあたりが、「聖者」の資質なのかもしれません。食物を受け取っても、殊更に褒め称えたりはしませんが、まさかお礼くらいは言うのでしょうねえ。それもしないとなればよっぽどです。


二二〇 両者――出家者であるビク(bhikkhu)と在家者である猟師とをいう(Pj.)。

 住所も生活も隔たっていて――(住所について)出家者であるビクは森に住み、在家者である猟師は村に住む。(生活について)ビクは村の中を戸ごとに托鉢して歩むが、猟師は森の中で鳥獣を殺す(Pj.)。

 わがものとみなす執著がない――その原語(amama)は第四六九、四九四、四九五、七七七にも出てくる。同様の語は叙事詩のうちにも存する(nirmama. Bh G. Ⅲ,30; ⅩⅧ,53. 猟師が宗教心を起し、我執がなくなった境地をnirmamaという。―MBh, ⅩⅡ, 149,3)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 このあたり私が仏教に疑問を持つ部分で、もしも人類すべてが仏教徒になったならどうなってしまうのでしょう。他者が命を奪って「食物」の形にしたものを托鉢で平気で食べるというのであれば、「聖者」のどこが清らかなのか、その根拠は薄いと言わざるを得ないでしょう。

 結局バラモン教の常識の上で理屈をこねているというか、一人の出家者(bhikkhu)が解脱するために、その生活を支える多くの人間が地獄に堕ちてよいという発想なのでしょうね。もしくはスードラには魂がないからどうでもいいとか、そういう意識が透けて見えます。仏陀は、「生まれによってバラモンではない」というようなことを言いますが、観念ではなくて現実問題として、すべての人類が他の命を奪わない状態というのをどのような社会であると想定したのか、それが知りたいものです。

 妻子とともにある在家の生活よりも出家の生活の方が尊いものであると説かれる。愛欲を受ける生活は劣っている。在家の生活は煩いに逼められている。猟師と出家者とはともに森の中にいるけれども、生活が非常に異なっているということについていう(cf. Sn. Ⅲ,6; v.406.)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

二二一 青頸の――nilagiva. 「孔雀の頸は、宝石で飾られた杖のようであるから、青頸と呼ばれるのである」(manidandasadisaya givaya nilagivo ti ca manjura-vihamgamo vuccati. Pj.vol.Ⅱ,p.277,ll.10-11. manjura という語は辞書には出ていないが、Skrt. mayura の俗語形であろう)。

 「青頸」ということは、インドでは尊ばれるらしい。シヴァ神の別名は「青頸」(Nilakantha)という。これが仏教に入って「青頸(しょうきょう)観音」が考えられるようになった(『大悲心陀羅尼』の「のらきんじ」は、右の原語の音写である)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

[][][][]衛霊公第十五を読む(その20) 20:43 はてなブックマーク - 衛霊公第十五を読む(その20) - 蜀犬 日に吠ゆ

必ずこれを察す

 衛霊公第十五(380~420)

406 子曰。衆悪之。必察焉。衆好之。必察之。

(訓)子曰く、衆、これを悪むは、必ずこれを察し、衆、これを好むも、必ずこれを察す。

(新)子曰く、皆が悪く言った人は、必ず自分の目でしらべ直す。皆が善く言った人をも、必ず自分の目で調べ直す。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 夫子は、世間の評価というものを参考にこそすれ、それに従うと言うことをしない人でした。子路第十三の子貢との対話でも、町内の人と言っても、しっかり者の見える人とそうでない人がいる、といっています。

 群衆は往往にして衆愚であることがあり、それが原因となって独裁者が生まれ、村八分が生まれる。それに対する警告である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 また、夫子が人物を評価するときには、誰をか毀り誰をか誉めん、というならば、自分できちんと判断できるまでぶつかった人のみを、評価したり批判したりした、ということです。

 衆人の好悪は公平のようであるが、衆人に悪まれてる人の中には独立独行して世俗に迎合しない人があるかもしれないから、衆人から悪まれてる人でも君子は必ず考察を加える。衆人から好まれてる人の中には主義もなく節操もなくただ世俗に迎合して悦ばれてる人があるかもしれないから、衆人から好まれてる人でも君子は必ず考察を加える。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 衆が悪んでも孔子が認めた例

公冶長第五縲絏の中に在りと雖も其の罪に非ざるなり

 衆が好んでも孔子が認めなかった例

公冶長第五孰れか微生高を直しと謂うや


人、能く道を弘む

 衛霊公第十五(380~420)

407 子曰。人能弘道。非道弘人。

(訓)子曰く、人、能く道を弘む。道の人を弘むるには非ず。

(新)子曰く、人間は努力して正義の道を拡充しなければならない。どうかすると人間は、正義の道に乗りかかって自分の名を売り拡めようとする。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 宮崎先生、生臭い。身近にそういう人がいたのでしょうか。素直に読めば加地先生のような解釈となりましょう。

 老先生の教え。人間が(努力して)道徳を実質化してゆくのであって、道徳が(どこかに鎮座していて、それが自然と)人間を高めてゆくわけではない。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 道弘人、考えが進めば、「道の体現者」への盲従を生み出すわけであり、危険な救世主思想につながりかねません。あくまで現実主義・人間中心の儒家ですから、歩みは遅々としていても、自分の力で道を実現してゆくしかないのです。


過ちて改めず

 衛霊公第十五(380~420)

408 子曰。過而不改。是謂過矣。

(訓)子曰く、過ちて改めず、是を過ちと謂う。

(新)子曰く、自分の間違ったことに気付きながら、あくまで非を通そうとする人ある。そこに過失が完成される。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 儒家は現実路線ですから、君子と雖も過ちをおかします。しかし、その過ちかたが小人とは異なるが故に君子君子たり得るのです。

参照

学而第一過ちては改むるに憚ること勿れ

雍也第六「(顔回は)過ちを弐(ふたた)びせず

子罕第九「過ちては改むるに憚ること勿れ

子張第十九「小人の過ちや、必ず文る

子張第十九「君子の過ちや、日月の食の如し


 人は、失敗してしまうとどうしても心がかたくなになってしまい、失敗をごまかそうとかなかったことにしようとかします。そうではなくて、失敗を失敗であるときちんと見つめる勇気が、君子と小人を分けることとなるのでしょう。