蜀犬 日に吠ゆ

2010-04-13

[][][]蛇の章を読む(その48) 21:40 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その48) - 蜀犬 日に吠ゆ

諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る

第一 蛇の章

一二、 聖 者

二一七 他人から与えられたもので生活し、(容器の)上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二一八 淫欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者――かれを諸々の賢者は(真の)(聖者)であると知る。

二一九 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、――諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

二二〇 両者は住所も生活も隔たっていて、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをもわがものとみなす執著がない。在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。

二二一 譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。


(蛇の章)第一おわる


まとめの句

 蛇とダニヤと(犀の)角と耕す人と、チュンダと破滅と賤しい人と、慈しみを修めることと雪山に住む者とアーラヴァカと、勝利とまた聖者と、――

 これらの十二の経が「蛇の章」と言われる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註。

二一七 上の部分からの食物――瓶から最初に取り出した食物(Pj.)。

 中ほどからの食物――中ほどまで取り出された瓶から取り出した食物(Pj.)

 残りの食物――瓶の中に一匙か二匙か残っているのを取り出した食物(Pj.)

 おとしめて罵る――nipaccavadi(=dayakam nipatetva appiyavacanani vatta. Pj. p.272).

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 托鉢して廻るときに、檀那がどこからどうやって食物を取り出すのか、じっくりと観察しているブッダの姿は、少し陰険であるような気もしますが、まあ腹に一物あってもおくびにも出さないあたりが、「聖者」の資質なのかもしれません。食物を受け取っても、殊更に褒め称えたりはしませんが、まさかお礼くらいは言うのでしょうねえ。それもしないとなればよっぽどです。


二二〇 両者――出家者であるビク(bhikkhu)と在家者である猟師とをいう(Pj.)。

 住所も生活も隔たっていて――(住所について)出家者であるビクは森に住み、在家者である猟師は村に住む。(生活について)ビクは村の中を戸ごとに托鉢して歩むが、猟師は森の中で鳥獣を殺す(Pj.)。

 わがものとみなす執著がない――その原語(amama)は第四六九、四九四、四九五、七七七にも出てくる。同様の語は叙事詩のうちにも存する(nirmama. Bh G. Ⅲ,30; ⅩⅧ,53. 猟師が宗教心を起し、我執がなくなった境地をnirmamaという。―MBh, ⅩⅡ, 149,3)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 このあたり私が仏教に疑問を持つ部分で、もしも人類すべてが仏教徒になったならどうなってしまうのでしょう。他者が命を奪って「食物」の形にしたものを托鉢で平気で食べるというのであれば、「聖者」のどこが清らかなのか、その根拠は薄いと言わざるを得ないでしょう。

 結局バラモン教の常識の上で理屈をこねているというか、一人の出家者(bhikkhu)が解脱するために、その生活を支える多くの人間が地獄に堕ちてよいという発想なのでしょうね。もしくはスードラには魂がないからどうでもいいとか、そういう意識が透けて見えます。仏陀は、「生まれによってバラモンではない」というようなことを言いますが、観念ではなくて現実問題として、すべての人類が他の命を奪わない状態というのをどのような社会であると想定したのか、それが知りたいものです。

 妻子とともにある在家の生活よりも出家の生活の方が尊いものであると説かれる。愛欲を受ける生活は劣っている。在家の生活は煩いに逼められている。猟師と出家者とはともに森の中にいるけれども、生活が非常に異なっているということについていう(cf. Sn. Ⅲ,6; v.406.)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

二二一 青頸の――nilagiva. 「孔雀の頸は、宝石で飾られた杖のようであるから、青頸と呼ばれるのである」(manidandasadisaya givaya nilagivo ti ca manjura-vihamgamo vuccati. Pj.vol.Ⅱ,p.277,ll.10-11. manjura という語は辞書には出ていないが、Skrt. mayura の俗語形であろう)。

 「青頸」ということは、インドでは尊ばれるらしい。シヴァ神の別名は「青頸」(Nilakantha)という。これが仏教に入って「青頸(しょうきょう)観音」が考えられるようになった(『大悲心陀羅尼』の「のらきんじ」は、右の原語の音写である)。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫