蜀犬 日に吠ゆ

2010-05-07

[][][][]陽貨第十七を読む(その2) 19:07 はてなブックマーク - 陽貨第十七を読む(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

性、相い近し

 陽貨第十七(435~460)

436 子曰。性相近也。習相遠也。

(訓)子曰く、性、相い近し。習い相い遠し。

(新)子曰く、生れつきは互いに似たものだが、習慣によって人間がすっかり変わってくる。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 全てにおいてそうだというわけではないでしょうね。「性」というのは人間の本質であり、たとえば肉体の特徴などは遺伝的形質によって左右されるわけですから。

 しかし、体の大きい人も、小さい人も、お金持ちの家に生まれた人もそうでない人も、すべて同じように学び、習うことで君子を目指すことが出来る、というのが、論語の趣旨でしょう。「教え有りて類無し」と同じ。


上知と下愚は移らず

 陽貨第十七(435~460)

437 子曰。唯上知与下愚不移。

(訓)子曰く、唯だ上知と下愚は移らず。

(新)子曰く、天才はどんな壁をも突き破ってその天才を発揮し、馬鹿にはつける薬がない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 で、前条と関連づけてこれをすっきり解釈することは難しいわけです。戦後民主主義的な単純平等論とは折り合いが悪そうな章句ではあります。私も以前はちょっと読んでひっかかる部分でした。

 まあ今では問題なく分かります。上知すなわち天才や下愚すなわち馬鹿を「性」と見るから分かりにくくなるわけで、「習」でみればいいわけです。すなわち、幼い頃から一心に学んで積み重ねてきた「上知」や、つねに怠学してしまった「下愚」の後れというのは、なにかで一発逆転できるわけではない、ということですよね。

 上と下と、もちろん中もありますが、その違いは「中人以上、中人以下」にも登場します。


雞を割くに、焉んぞ牛刀を用いん

 陽貨第十七(435~460)

438 子之武城。聞弦歌之声。夫子莞爾而笑曰。割雞焉用牛刀。子游対曰。昔者偃也。聞諸夫子。曰。君子学道則愛人。小人学道則易使。子曰。二三子。偃之言是也。前言戯之耳。

(訓)子、武城に之(ゆ)き、弦歌の声を聞く。夫子、莞爾として笑って曰く、雞を割(さ)くに、焉(な)んぞ牛刀を用いん。子游対えて曰く、昔は偃や、これを夫子に聞く。曰く、君子道を学べば人を愛し、小人道を学べば使い易し、と。子曰く、二三子、偃の言是なり。前言は之に戯れしのみ。

(新)孔子が武城という小邑に行き、代官の子游の案内で、琴にあわせて歌っている雅楽の練習を見た。孔子は思わず微笑して、曰く、雞を料理するのに秘蔵の名刀を持出したわけかな。子游が対えて曰く、前に私は先生に伺ったことがあります。上に立つ者が道を学べば、人民を大切に扱うようになり、一般の人民が道を学ぶと上に対して従順になる、ということでしたが。子曰く、そうだ、偃はよく言ってくれた。今のは私が思わず口をすべらせたのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 これも、昔は「孔子は、自分の失言を「冗談だよガッハッハァ」とごまかす人なのかなあ…」と疑問の章句でしたが、今読み返してみると子游のむきになった反論にも、「もうちょっと余裕を持てないのか? 音楽の練習も、こんなふうに理想論をぶちかまして強制的にやらせているのかも知れないなあ、夫子が軽口を叩いたのは、あんまり理想論で突っ走るもんじゃないという深謀遠慮があってのことなのかも」と感じました。もちろん子游が正しい、それは夫子も認めたとおりなのですが、正しければいいのか、という問題にもきちんと触れている論語は、改めてすごいなあ。