蜀犬 日に吠ゆ

2010-05-08

[][][][]陽貨第十七を読む(その3) 21:38 はてなブックマーク - 陽貨第十七を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

公山弗擾、費以て畔き子を召す

 陽貨第十七(435~460)

439 公山弗擾。以費畔。召子。欲往。子路不説曰。末之也已。何必公山氏之之也。子曰。夫召我者。而豈徒哉。如有用我者。吾其為東周乎。

(訓)公山弗擾、費以て畔(そむ)き子を召す。往かんと欲す。子路、説(よろこ)ばずして曰く、之(ゆ)く末(な)からんのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かんや。子曰く、夫れ我を召す者は、豈に徒(いたず)らのみならんや。如し我を用うる者あらば、吾は其れ東周と為さんか。

(新)公山弗擾なる者が費の邑に拠って叛乱を起し、孔子を招いた。孔子が往こうとした。子路は不賛成を唱えて言った。行くには及ばないでしょう。何故、選りに選って公山弗擾などを助けに行くのですか。子曰く、私を見込んで招くからには、きっとそれだけの理由があるに違いない。本当に私の言うことに従うなら、私はそれを東周再興のように仕立てて見せるのだが。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 孔子略年表によれば、費城の叛乱は孔子五十歳前後、一度魯に仕官し、外遊し、魯に戻っていた頃のこと。公山弗擾の叛乱については詳らかではありません*1が、当時魯は陽虎が専横をきわめていたため、孔子はそういったことへの反発もあって、自らを高く評価してくれる新興勢力に興味を持ったのではないでしょうか。陽虎への仕官をことわり、「習いで遠くなる」だの「下愚」だの「焉んぞ牛刀を用いんや」と来た流れのあとで公山弗擾へは仕官しようとした、とするこの章句は、孔子が為政者というものを身分や血統ではなくて実力や度量ではかろうとしていたことをあらわすのかも知れませんね。

*1:『陋巷に在り』だと詳しくやるんです