蜀犬 日に吠ゆ

2010-05-15

[][][][]陽貨第十七を読む(その10) 21:59 はてなブックマーク - 陽貨第十七を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ

徳をこれ棄つる

 陽貨第十七(435~460)

449 子曰。道聴而塗説。徳之棄也。

(訓)子曰く、道すがら聴きて、塗すがら説くは、徳をこれ棄つるなり。

(新)子曰く、人にいま聞いてきたことを、すぐ自分の説として吹聴するのは、向上心をすてた人のすることだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 今は道だけでなく、テレビのワイドショートか、新聞雑誌やネットで半端な知識だけを切り取り、云々というのを自戒しなければ。


鄙夫は与に君に事うべけんや

 陽貨第十七(435~460)

450 子曰。鄙夫可与事君也与哉。其未得之也。患得之。既得之。患失之。苟患失之。無所不至矣。

(訓)子曰く、鄙夫は与に君に事うべけんや。其の未だこれを得ざるや、これを得んと患う。既にこれを得れば、これを失わんことを患う。苟もこれを失わんことを患うれば、至らざる所なし。

(新)子曰く、さもしい人間と同僚になって宮仕えすると、とんだ目にあうものだ。望みの地位を得ない間は、是非とも得ようと心を砕き、やっと手に入れると今度は、どんなにしてでもそれを失うまいとやきもきする。柄にもなく得たものを失うまいとやきもきしだしたとすれば、どんなことでもやりかねなくなる。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 科挙が取り入れられて以降、少なくとも官僚官吏はすべてこの章句に触れていたはずで、それでいてあの党争やらなんやらというのはすごいなあ。中国は奥が深い。


古は民に三疾ありき

 陽貨第十七(435~460)

451 子曰。古者民有三疾。今也或是之亡也。古之狂也肆。今之狂也蕩。古之矜也廉。今之矜也忿戻。古之愚也直。今之愚也詐而已矣。

(訓)子曰く、古は民に三疾ありき。今や或いはこれ亡きなり。古の狂や肆なり、今の狂や蕩なり。古の矜や廉なり、今の矜や忿戻(ふんれい)なり。古の愚や直なり。今の愚や詐れるのみ。

(新)子曰く、昔でも人々の間には三つの癖があったものだが、ただし近頃とはそのありかたが違う。昔、狂といわれた変り者は放言しただけだが、今の狂は精神異常だ。昔、矜といわれた自信家は孤高を誇ったが、今の矜はただの喧嘩師だ。昔、愚とよばれたお人よしは真正直であったが、今の愚は喰わせ者ばかりだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 宮崎先生は意訳にすぎませんかね、と思って他の訳本に当たってみましたが、大体同じようでした。

 古は人に性質の偏した三つの疾(やまい)があったが、今日ではこれも無くなったのであろう。古の人に志願の太(はなは)だ高い者がある。これが狂の疾である。しかしその狂は小節に拘(かかわ)らないのに過ぎないのであるが、今の狂は放縦で礼法を敗壊するのであって、古の狂の疾はない。古の人に己を持ち守ることが太だ厳しい者がある。これが矜の疾である。しかしその矜は圭角があって人に苟も犯すことのできないのを示すに過ぎないのであるが、今の矜は剛悪を逞しくして人と和せず、相争うに至るので、古の矜の疾はない。古の人に心が暗くて道理の明らかでない者がある。これが愚の疾である。しかしその愚は心に思うことを直ちに行うのに過ぎないのであるが、今の愚は私意を挟んで妄りに行い詐欺をするので、古の愚の疾はない。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 夫子おとくいの尚古論法、なのですが、夫子の言を単純に「昔はよかった」式解釈で済ませてしまってよいのでしょうか。

 これはおそらく、「春秋の筆法」というか、孔子の歴史を記述するという使命感とともに考えあわせなければならないのではないでしょうか。これは今の人が、「狂・矜・愚」と非難されたときに「古にも狂矜愚とされたがのちに見直された人もいる」とかなんとか言い訳するのに対して孔子が「どうせ開き直るなら、スケールのデカい狂矜愚になれ、本物の狂矜愚になれ」と反論したのではないでしょうか。歴史に残り、むしろ評価されるような「狂矜愚」者ばかりではなくて今の人たちと同じような、凡庸な有象無象の「狂矜愚」者が沢山いて、そういう人が多数を占めていたことももちろん孔子は知った上で、「後世に語りつがれるような狂とは、矜とは、愚とは」何か、ということについて孔子は語ったのではないでしょうか。



巧言令色には鮮いかな仁

 陽貨第十七(435~460)

452 子曰。巧言令色。鮮矣仁。

(訓)子曰く、巧言令色には、鮮いかな仁。

(新)3と同じ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 大切なことだから、繰り返して言う。「巧言令色には鮮いかな仁」。