蜀犬 日に吠ゆ

2010-05-23

[][][][]微子第十八を読む(その2) 11:34 はてなブックマーク - 微子第十八を読む(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

柳下恵は士師と為り三たび黜けらる

 微子第十八(461~471)

462 柳下恵為士師。三黜。人曰。子未可以去乎。曰。直道而事人。焉往而不三黜。枉道而事人。何必去父母之邦。

(訓)柳下恵は士師と為り、三たび黜(しりぞ)けらる。人曰く、子は未だ以て去るべからざるか。曰く、直道もて人に事えば、焉んぞ往くとして三たび黜けられざらんや。枉道もて人に事えば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らん。

(新)柳下恵は裁判官に任命されたが、罷免され、同じことを三度繰りかえした。ある人が言った。こんなことなら他国へ行って仕えた方がよくはありませんか。曰く、正しい主義を曲げないで宮仕えすれば、どの国へ往っても免職を繰りかえすことは同じでしょう。主義を曲げて仕えるつもりなら、どこの国に仕えても勤まります。折角生れついた父母の邦を去って、どこへ行けばいい所があるというのでしょうか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 柳下恵が、その実力を認められず裁判官に追いやられたり、何度も馘首されるのは臧文仲の陰謀なんですけどね。そういう政治的駆け引きには応じないひとであり、孔子が尊敬したのもそういう部分なのでしょう。おのれの立場よりも職責を優先させ、罷免されても慌てず、呼び出されればまた忌憚なく宮仕えする、史魚や蘧伯玉のもっていた「直」を、柳下子ももっていたということでしょう。


斉の景公孔子を待つ

 微子第十八(461~471)

463 斉景公待孔子曰。若季氏。則吾不能。以季孟之間待之。曰。吾老矣。不能用也。孔子行。

(訓)斉の景公、孔子を待つに曰く、季氏の若くするは、吾れ能くせず。季・孟の間を以てこれを待たん。曰く、吾れ老いたり。用うる能わざるなり、と。孔子行(さ)る。

(新)斉の景公が孔子の待遇について言った。魯の季氏が来たと同じ待遇を与えることは、私としてはできない。(ある人が言った。)それでは季氏と孟氏との中間の待遇を与えてはどうでしょうか。曰く、私ももう年寄りだ。孔子のような新人を登用して働かせることは無理なことだ。これを聞いて孔子は斉から立去った。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 孔子略年表で言う所の、孔子36~43歳の斉国滞在時期のことでありましょう。

 程子は「孔子が斉を去ったのは待遇の軽重によるのではなくて、ただ用いられないから去ったのである」と曰っている。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 孔子の政治生活における最初の挫折である。「史記」の「孔子世家」では、斉の賢者として聞こえた晏嬰が、孔子の任用を邪魔だてした、という。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 前章でも、己の立場にこだわらない柳下恵の話が取り上げられていますが、孔子もまた同じように、政治的な駆け引きの中で信念を枉げてまで就職するつもりはなかったのでしょう。


斉人、女楽を帰る

 微子第十八(461~471)

464 斉人帰女楽。季桓子受之。三日不朝。孔子行。

(訓)斉人、女楽を帰(おく)る。季桓子これを受け、三日朝せず。孔子行る。

(新)斉の国から魯の国へ、女子の音楽隊を贈ってきた。家老の季桓子がそれを受け、三日間、政治を見ることを怠った。孔子が見切りをつけて魯から立去った。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 まえの節から二十年弱のちの、魯の定公十四年、五十六歳の孔子は、祖国魯の大司寇、すなわち司法担当の国務大臣として、一番家老の季桓子、すなわち季孫斯などっとともに、国政をとった。「史記」によれば、隣国の斉は、孔子によって魯の国政が振うのを嫉み、女歌舞伎八十人に、文れる馬三十駟(くみ)をそえたもの、といえばサーカスのようなものであろうが、それを魯におくって、魯の政治家たちを誘惑した。「帰」は「饋」と同じく、「おくる」と訓ずる。首相の季桓子はそれを受けとって、それに耽溺し、三日間、朝廷に出なかった。

 孔子は絶望し、魯の国を立ち去った。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 これだと季桓子が仕事をさぼった話になりますが、実際に朝するのは君主である定公です。この人がさぼったので孔子が絶望した、というのでなければ話の筋を通しにくい。

時に魯国の政は季桓氏が専らにしていたから、桓子は魯君に勧めてこれを受け、君臣共に楽しみに耽って政治を怠り、朝に出ないことが三日に及んだ。賢人を用いて女楽を受けるのは賢をあなどるのである。三日朝に出ないのは礼を棄てるのである。与に政を行うことのできないのを見て、孔子は遂に魯を去った。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 このとき、「仁を好む人はいないのか」、とか「已矣乎」とか呟いた可能性が高いと思います。


 中島敦は、文章上手い。

強国斉は、隣国(りんこく)の宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政(しせい)の下(もと)に充実して行く魯の国力に、懼(おそれ)を抱(いだ)き始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代支那(しな)式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へ贈(おく)るに、歌舞(かぶ)に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩(とろ)かし定公と孔子との間を離間(りかん)しようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相(あい)俟(ま)って、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽に耽(ふけ)ってもはや朝(ちょう)に出なくなった。季桓子(きかんし)以下の大官連もこれに倣(なら)い出す。子路は真先に憤慨(ふんがい)して衝突(しょうとつ)し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なお尽(つ)くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞(や)めてもらいたくて仕方が無い。師が臣節を汚(けが)すのを懼れるのではなく、ただこの淫(みだ)らな雰囲気(ふんいき)の中に師を置いて眺(なが)めるのが堪(たま)らないのである。

 孔子の粘(ねば)り強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっとした。そうして、師に従って欣(よろこ)んで魯の国を立退(たちの)いた。

 作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離(とおざか)り行く都城を顧(かえり)みながら、歌う。

 かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦の謁(えつ)には君子ももって死敗すべし。…………

 かくて、爾後(じご)永年に亘(わた)る孔子の遍歴(へんれき)が始まる。

中島敦『弟子』青空文庫

 『弟子』ですと、定公が率先して女楽に耽り、季桓子以下があとから続いたかのような脚色演出が為されていますが、論語の記述から言うとそうでもなさそうですね。まあだれが先でもどうでもいいといえばいいのですが。