蜀犬 日に吠ゆ

2010-05-28

[][][][]微子第十八を読む(その4) 19:36 はてなブックマーク - 微子第十八を読む(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

鳥と獣とは与に羣を同じくすべからず

 微子第十八(461~471)

466 長沮桀溺。耦而耕。孔子過之。使子路問津焉。長沮曰。夫執輿者為誰。子路曰。為孔丘。曰。是魯孔丘与。曰。是也。曰。是知津矣。問於桀溺。桀溺曰。子為誰。曰。為仲由。曰。是魯孔丘之徒与。対曰。然。曰。滔滔者。天下皆是也。而誰以易之。且而与其従辟人之士也。豈若従辟世之士哉。耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰。鳥獣不可与同羣。吾非斯人之徒。与而誰与。天下有道。丘不与易也。 

(訓)長沮と桀溺と耦して耕す。孔子これを過(よぎ)り、子路をして津(しん)を問わしむ。長沮曰く、夫の輿(たづな)を執る者は誰とか為す。子路曰く、孔丘たり。曰く、是れ魯の孔丘か。曰く、是れなり。曰く、是れならば津を知れり。桀溺に問う。桀溺曰く、子は誰とか為す。曰く、仲由たり。曰く、是れ魯の孔丘の徒か。対えて曰く、然り。曰く、滔滔たる者は、天下皆な是れなり。而して誰か以てこれに易(たが)わん。且つ而(なんじ)は人の辟(さ)くるの士に従わんよりは、豈に世を辟くるの士に従うに若かんや、と。耰(ゆう)して輟(や)めず。子路行(さ)りて以て告ぐ。孔子憮然として曰く、鳥と獣とは与に羣を同じくすべからず。吾は斯の人の徒と与にするに非ずして、誰と与にせん。吾は斯の人の徒に非ず。而と与に誰に与(くみ)せん。天下に道あれば、丘は与に易えざるなり。天下の有道には、丘は与し易(たが)わざるなり。

(新)長沮と桀溺とが二人一組になって耕作していた。孔子がそこを通りかかり、(常人でないのを察し、用もないのにわざと)子路に命(いい)つけて渡し場のありかを尋ねさせた。長沮曰く、あの輿(たづな)を握っている男は誰だ。子路曰く、孔丘という者です。曰く、魯国の孔丘だね。曰く、その通り。曰く、そんなら教えないでも知ってる人だ。こんどは桀溺に尋ねた。桀溺曰く、君は誰だ。曰く、仲由という者です。曰く、すると魯の孔丘の仲間だな。曰く、その通り。曰く、滔滔として大勢に順応する者は、天下にいっぱい満ち満ちている。それに逆らおうとするのは誰だろう。君もその一人らしいが、人間ぎらいの孔丘の仲間でいるよりは、いっそこの世間ぎらいの我々の仲間に入ってはどうだ。といったまま、長沮が土を掘ったあとへ種を蒔く手をやめなかった。子路が帰ってきて報告した。孔子はしんみりとしていった。鳥と獣とはいっしょに群をつくることはできない。私はあの人たちと仲間になりたくてもなれない。古い言葉に、而とともに誰の仲間になろうか、とあるが、(私は人間ぎらいどころではない。)天下の有道者からは、私は決して離れて行かぬつもりだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章の従来の解釈は、いずれも意味がはっきりしない。その理由を考えると、次の三つが挙げられる。第一は、

非斯人之徒与而誰与。

の句の読み方であるが、これは、

262 非夫人之為慟而誰為。 夫の人の為に慟するに非ずして誰が為にせん。

と非常に似通った構造なので、つい、

斯の人と与にするに非ずして誰と与にせん。

と読んでしまったが、すると孔子は、斯人之徒、すなわち長沮桀溺の仲間になってしまいそうである。それでは困るから、そこで、斯人之徒を天下の民衆という風に解釈したが、いったい天下の大衆を斯人之徒などと呼ぶことができるものだろうか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 たしかに、「斯人之徒」を金谷先生は「この人間の仲間」、宇野先生は「この人類」、加地先生「この世の人」と、特に説明をせずに解釈していますね。吉川先生は「ほかでもない、この人間、この人間のかたまり」と、「斯」を強調の意にとっています。それが、「孔子を長沮桀溺の仲間に」してしまうのを避けたかどうかはわかりませんが、たしかに直訳とはいえないようです。

私は、斯人之徒を自然のままに長沮桀溺の徒とするために、右の文中、吾れは斯の人と徒に非ず、で一応句を切ってみた。すると次に、与而誰与、の四字が残るが、このように第一字と第四字が同字であるのは、古語の引用である場合が多い。而の読み方が問題であるが、恰もよし、すぐ前に桀溺の言葉の中で而の字を用いて汝と読ませているから、ここでも同じように汝と読んでも唐突の感がない。但しこの箇所は従来のように句読しても、

自分は彼等、長沮桀溺と仲間になることができぬとしたら、誰の仲間になろうか。

と解釈するなら、通じないこともない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 次に有道の二字を従来はいずれも、道あれば、と句にして読んだが、論語の中ではこれを有道者の意味に、名詞として用いることが二回、14297の中に見える。この場合も名詞として解釈すれば通りがよくなる。前文に天下滔滔者とあるのも事実だが、一方天下に有道者がいるのも事実で、それがいる限り、孔子はその仲間に留まるのである。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 更に従来は鳥獣を一群と見て、これに人類を対立させたが、これも文章を不明にする一因である。この場合は鳥が一群、獣が一群と離れているのであって、長沮桀溺と孔子との間に譬えたものである。中国の後世の注釈家はこのような場合、人間を動物に譬えるのは、何か人間冒瀆のような気がして、強いて避けようと努力したらしいが、古代人はそういう点には拘泥しなかったのである。もしこの句の意味をはっきり掴んで、儒家と隠者とが全然別物である立場をとれば、全体の意味をもう少し別の方向へ持って行くことができたであろうと思われる。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 第一、第三の解釈では、従来の人たちは自分たちの儒教観をすでにもった状態、つまり先入観をもって論語の解釈に当たったために不思議な翻訳を行わなければならなくなったのではないかという指摘。そういう部分は、当然ありそうに思われます。