蜀犬 日に吠ゆ

2010-06-09

[]火渡り~~『世界樹の迷宮Ⅲ 星海の来訪者』ATLUS (その19) 22:18 はてなブックマーク - 火渡り~~『世界樹の迷宮Ⅲ 星海の来訪者』ATLUS (その19) - 蜀犬 日に吠ゆ

 深都でミッションを受けて、第三階層へ

世界樹の迷宮III 星海の来訪者(特典なし)

世界樹の迷宮III 星海の来訪者(特典なし)

 うーむ。本当は第二階層で素材集めをすべきなのでしょうけれども、すこしオーヴァレベルなので迷宮に深く潜ることにします。

  1. オランピア再登場
    • B10Fであう約束をします。
      • 「ときメモ」ならゲームセットですぞ
  2. あと、ギルド「ムロツミ」のかなえちゃんと、行方不明のシノビの子
    • ってどうなったんだろう。あれから全然会わない。
  3. 航海は、ミッションの意味が分かった。
    • 経験値稼ぎになるのかしらん。


[][][]葛覃(葛延びて)『周南』を読む(その4) 21:42 はてなブックマーク - 葛覃(葛延びて)『周南』を読む(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

 周南、第四歌。

4 樛木(しだり木)

1

南有樛木

葛藟纍之 liuei

樂只君子

福履綏之 siuei


南に樛木(きうぼく)あり

葛藟(かつるゐ)これを纍(まと)う

樂しき君子

福履(ふくり)これを綏(やす)んず


みんなみの しだり木に

つたかづら まとひたり

めでたしや よき人に

しあはせの やすらはむ


2

南有樛木

葛藟荒之 xuang

樂只君子

福履將之 tziang


南に樛木あり

葛藟これを荒(おほ)ふ

樂しき君子

福履これを將く


みんなみの しだり木に

つたかづら おほひたり

めでたしや よき人に

しあはせは いやまさむ


3

南有樛木

葛藟縈之 iueng

樂只君子

福履成之 zjieng


南に樛木あり

葛藟これを縈(めぐ)る

樂しき君子

福履これを成す


みんなみの しだり木に

つたかづら めぐりたり

めでたしや よき人に

しあはせは いやはてに

白川静『詩経国風』東洋文庫

主題 祝頌の歌。木の茂るさまを歌うのは祝頌の興であるが、特に寄生木(やどりぎ)や、また蔦葛の類がまとう姿は吉祥として喜ばれた。わが國にも、「あしひきの山の木末(こぬれ)の寄生(はよ)取りて插頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)壽(ほ)くとぞ」(萬葉、四一三六、大伴家持)のような歌があり、この詩も宴飲の際の祝頌の歌である。

白川静『詩経国風』東洋文庫

 「枯れ木も山の賑わい」といいますが、宿り木はおめでたいんですね。そういう感覚はあんまりないです。むしろ寄生された方の木が傷むのではないかと心配になってしまいますからね。



[][][][]子張第十九を読む(その8) 21:42 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その8) - 蜀犬 日に吠ゆ

大徳、閑を踰えざれば、小徳は出入すとも可

 子張第十九(472~496)

482 子夏曰。大徳不踰閑。小徳出入可也。

(訓)子夏曰く、大徳、閑(のり)を踰(こ)えざれば、小徳は出入すとも可なり。

(新)子夏曰く、修養の上では大事な点で足を踏みはずすことがなければ、小さな過不及の誤りは数え立てるに及ばない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「小さな過不及の誤り」というのがどういった事を指すのか、解釈は分かれるようです。それというのも、この章句は

 この章は人を観る場合に用いるならよいが、これを用いて己を恕するならば大きな弊害がある。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 というように、悪を認める言い訳に使われてしまう可能性を多分に持っているからです。

 朱子も

 朱子が呉氏を引いて、「此の章の言は弊無きこと能わず、学者之れを詳かにせよ」というのは、孔子の言葉でなく、弟子の言葉である故に、批判の余地がある、とするのである。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 と、いいがかりまがいの非難を加えていますが、そうしたことでしょう。

皇侃や邢昺は、「大徳」とは至上の道徳者、「小徳」とは小さな道徳者、と解するが、通説でない。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 未熟な道徳者だから間違ってもいい、というわけでには行かないでしょう。


 私の解釈では、これは、「間違ってもいい」ではなくて、「間違うことを恐れて大徳を見失うな」という事であると思います。そういう意味の章句は前になかったかなあ。


新約聖書

ルカの福音書 第16章

The Gospel According to LUKE CHAPTER 16

10 "He who is faithful in what is least is faithful also in much; and he who is unjust in what is least is unjust also in much.

10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

新共同訳『新約聖書』国際ギデオン協会

 またこれはニュアンスが違いますか。



君子の道は孰れをか先にして伝え、孰をか後にして倦らん

 子張第十九(472~496)

483 子游曰。子夏之門人小子。当洒掃応対進退。則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰。噫。言游過矣。君子之道。孰先伝焉。孰後倦焉。譬諸草木。区以別矣。君子之道。焉可誣也。有始有卒者。其惟聖人乎。

(訓)子游曰く、子夏の門人小子は、洒掃(さいそう)、応対、進退に当たりては可なり。抑も末なり。之を本つくるものは則ち無し。之を如何。子夏これを聞きて曰く、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先にして伝え、孰をか後にして倦(おこた)らん。これを草木に譬うれば、区して以て別たんや。君子の道は焉んぞ誣うべけんや。始めあり、卒(おわ)りある者は、それ惟だ聖人か。

(新)子游曰く、子夏の門人の誰れ彼れらは、掃きそうじや、口上取り次ぎ、立ち居振る舞いの点は、相当にできる。しかしそれらはそもそも末だ。その根本にあるものが少しもできていない。どうしたのだろう。子夏がこれを聞いて曰く、へん、言游が言い損なったな。君子になるための修養には、何を先として第一に学び、何を後としてなおざりにしてよいというものがあろうか。例えば草木について、根と葉を区分してどちらが大事だと議論するようなものではないか。修養のやり方を間違えて教えてはとんだことになる。だが始めから終まで筋を通して教えることのできるのは、千年にひとり出る聖人にしか期待できぬものだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 孔子略年表を見るに、子夏と子游は同年。十哲でいうなら、「文学には子游、子夏」と並び称される人物同士ですからね。ライバル意識とか会ったのでしょうか?


 普通、孔子の正統は孔子、曾子、子思、孟子と連なるとされるのですが、子夏、子張、そして子游などの教団もそれぞれに発展しました。それに貢献したのが子貢の活躍だった、ということですが(裏方に徹するあたり、瑚璉の器は美しい)、子華(公西赤)とか(子羽)澹台滅明とか、もっとがんばれなかったのかよ。

 子夏と子游の意見の相違は、儒教の本質を問うくらい重要なものであると思います。この章や、ほかの論語の章句が子夏の説をなぞり、ですからわたしも子夏の方に軍配を上げるのですが、例えば朱子学の文脈だったらどうだろう? とか思うわけです。

 子夏が言うのは、「学びて時に之を習う」という、「まず型をマスターすることから始まる」論語のスタンダードです。子游が言うのは「そもそも礼を成り立たせる根本は何か?」という太極図説的アプローチなのではないでしょうか。実際問題として、初学者に形而上学から教育課程を組み立てるのは、無謀だと思います。ただ、そういう教育課程編成の可能性もないとは思っていませんので、わたしごときが結論を出せる問題ではありませんが、論語の時代にもうそういう議論が成されていたことに、百家争鳴の時代の呼吸を感じる、とかなんとかいってお茶を濁しておきます。