蜀犬 日に吠ゆ

2010-06-12

[][][][]子張第十九を読む(その11) 19:50 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その11) - 蜀犬 日に吠ゆ

人未だ自ら致す者あらざるなり

 子張第十九(472~496)

488 曾子曰。吾聞諸君子。人未有自致者也。必也親喪乎。

(訓)曾子曰く、吾れはこれを夫子に聞く。人未だ自ら致す者あらざるなり。必ずや親の喪か、と。

(新)曾子曰く、私は先生に聞いたことがある。人間はなかなか自分の全力を出し尽くすということの出来ぬものだ。もしありとすれば、自分の親の葬式の場合だろう、と。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 とするなら孔夫子は、個人が全力を尽くすことが出来ないのは社会的要因に基づく、とお考えだったのでしょうか。親の葬式であれば、体面や外聞を気にすることなく感情を表出できますからね。

 これには、私は一部賛成、一部反対。私たちちっぽけな人間は、他にも多くの製薬の中で生きていると思います。たとえば、その日の体調が悪くて全力が出せない、とかね。

 しかし、吉川先生の解釈を読むに、私の誤読でした。

人間の行為のうち、自力だけで究極まで行けるものはない。必ず学問なり教養の助けを借りて、はじめて究極まで行ける。「致」はやはり究極の意。

 しかしこの原則にはずれるものがある。ほかでもない、親の喪における態度である。自己の内心から湧き起こる悲哀、それのみによって究極の完全な態度に到達できる。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 なるほど。しかしそれだと、「そんなことは禽獣にでもできる」という解釈になってしまい、一つの理窟ではありますが儒教の原理原則からははずれる解釈にもつながりかねませんかね。