蜀犬 日に吠ゆ

2010-06-17

[][][][]子張第十九を読む(その17) 21:11 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その17) - 蜀犬 日に吠ゆ

夫子の牆は数仞なり

 子張第十九(472~496)

494 叔孫武叔。語大夫於朝曰。子貢賢於仲尼。子服景伯以告子貢。子貢曰。譬之宮牆。賜之牆也及肩。窺見室家之好。夫子之牆数仞。不得其門而入。不見宗廟之美。百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云。不亦宜乎。

(訓)叔孫武叔、大夫に朝に語りて曰く、子貢は仲尼よりも賢なり、と。子服景伯以て子貢に告ぐ。子貢曰く、これを宮牆に譬うれば、賜の牆や肩に及ぶ。室家の好きを窺い見る。夫子の牆は数仞なり。其の門を得て入るにあらざれば、宗廟の美、百官の富を見ず。其の門を得る者、或いは寡なしと、夫子の云える、亦た宜(うべ)ならずや。

(新)魯の叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫たちと話している間に、子貢は孔子よりも賢い、と言った。子服景伯がそれを子貢に話した。子貢曰く、それはとんでもない。例えば邸宅の垣根で言うならば、私の垣根は肩の高さにすぎません。誰でも人はその上から、部屋の内部の奥深い所まで窺きこめます。先生の垣根の高さは数メートルもありますから、門から入っていくのでなければ、内部の建物、祖先を祭る宗廟の美しさ、部局に分れた財貨の蓄積の莫大なのを見ることができぬでしょう。かつて先生は、その門に入ることの出来る者は、甚だ少数に限られる、と申されましたが、まことにもっともなお言葉であったと思います。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 子貢の言葉はまるで「大器晩成」老子のようです。

 宮崎先生によば子貢の「宮牆」のたとえは先進篇堂に升れり。未だ室に入らざるのみを踏まえた者である由。直接的にこれではなくても、「門を得る者、或いは寡なしと」夫子が言ったということは、こうした譬喩はたびたびにおいてなされたと考えられます。子貢はそれをふまえてこうした説明を行ったのでしょう。


 「数仞」は、中国の度量衡に採録されていないので新字源(角川書店)を引くと、尋とおなじで七尺(一説には八尺)的なことがかいてあります。で、尋を引くと周代では八尺(日本では六尺)とあります。尋、というのは両腕を広げた長さであり、レオナルドによれば人体はその時正方形に内接しますから、ほぼ成人男子の身長に相当すると考えていいでしょう。孔子は背が高かったのですが、それはひとまずおいて、「数仞」はですから、子貢の牆が肩の高さであるのに比して孔子のそれは人の背丈の数倍であった、とこういう風に解釈するのがよさそうです。「数メートル」は間違いでないにしてもすこし杜撰ですぞ宮崎先生


 叔孫武叔は、魯の大夫の叔孫州仇であり、「左伝」では、定公十年に、自己の相続に異議を唱えた家臣公若の立てこもる都市、郈を包囲したという事件で、その名がはじめて見える。この年はすなわちまた、五十二歳の孔子が、同じく魯の重臣の一人として、魯侯の介添となり、夾谷の会見で斉侯をやりこめたことを、「左伝」が記す年である。(略)しからば、武叔は、孔子よりやや年の若い同僚であった。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 とするならば、孔子よりずいぶん若い子貢に心服するというのはあまり現実的ではないので、おそらく分かり易い例として引き合いに出したのでしょう。それで、子貢に「分かりやすい才気などというのは本物ではないですよ」とたしなめられてしまったのでしょう。