蜀犬 日に吠ゆ

2010-07-12

[][]野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ 19:59 はてなブックマーク - 野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ - 蜀犬 日に吠ゆ

 プラトン『国家』から現代を見る部分。

 例の、寡頭制→民主制→僭主制など国家体制が移行する話。

自由がもたらす隷属

 寡頭制の次の段階に来るものとして挙げるのが、民主制国家である。しかしプラトンは、民主制に対しても手厳しい。

 この関連でプラトンの「若者論」が展開される。それは、ひたすら民主主義を享受しているはずの現代の若者と、不思議に通じるところがある。

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 まず第一に、そういう(民主制国家の)人たちは自由であり、その国家は、行動の自由と言論の自由に満ちている、そこでは何人も、自分のしたい放題のことをすることが許されている、ということになるのではないか。


 (若者は)〈おそれごころ〉を〈愚かしさ〉と名づけ、不名誉にも追放者として外へ押し出し、〈節制を〉〈男らしくない〉と呼び、泥をぬって追いはらい、〈程をわきまえていること〉や〈秩序ある出費〉は、〈野暮で自由人にふさわしくない〉と説いて、たくさんの無益な欲望と協力しながら、国境の外へ追い出す。…(中略)…そして、〈傲慢〉を〈育ちの善さ〉、〈無政府〉を〈自由〉、〈浪費〉を〈おおらかさ〉、〈破廉恥〉を〈男らしさ〉と呼ぶ。     (『国家』第八巻、田中他訳)

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 そして、民主制を崩壊させるのは、「自由だ」とプラトンは断じる。行き過ぎ、節度を失った「自由」は社会を壊してゆく。プラトンの指摘に、現代の日本の姿が重なってくる。

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 (子は)自分が自由であることのためなら、両親に恥じる気持ちも怖れもいだかぬことを習慣とする。    (『国家』第八巻、田中他訳)

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 そして現代の日本の学校や社会そのものへの指摘と批判としか思えないような発言が出てくる。プラトンの批判の矢を浴びるのは政治だけではないのだ。

 現代の若者たちは、まるで二千数百年前にプラトンが鋭い批判の目を向けたアテネの若者たちと、どこが違うのだろうか。

 東京・渋谷の街や電車の車内で、ぐったりと座り込んだままだったり、大声で携帯電話で話し込んだり、「注意」する大人に殴り掛かったり――。学校では、勝手に教室内を歩き回ったり、大声を発して出て行ったりの「学級崩壊」が続く。反面、どのような政治腐敗や汚職が起きても、デモもなければ抗議集会も開かれない。「怒り」は自分自身の、個人的不快さへの怒りがほとんどだ。

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 野上先生の若者批判は、いわゆる「紋切型」ですね。そのことは置くとして、私にはプラトンの「若者批判」は本当か? という疑問が感じられる引用ですね。そもそも「(若者は)」「(子は)」と、本文にない言葉を訳者が補っているようにも見えますし、もちろんこうして補うことには根拠があるのでしょうけれども、プラトンの指し示す「若者」は、現代でいう「若者」と対応するのでしょうか。

 そもそも、

〈おそれごころ〉を〈愚かしさ〉と名づけ、不名誉にも追放者として外へ押し出し、〈節制を〉〈男らしくない〉と呼び、泥をぬって追いはらい、〈程をわきまえていること〉や〈秩序ある出費〉は、〈野暮で自由人にふさわしくない〉と説いて、たくさんの無益な欲望と協力しながら、国境の外へ追い出す。

 という「古代ギリシアの若者」と

東京・渋谷の街や電車の車内で、ぐったりと座り込んだままだったり、大声で携帯電話で話し込んだり、「注意」する大人に殴り掛かったり――。学校では、勝手に教室内を歩き回ったり、大声を発して出て行ったりの「学級崩壊」が続く。反面、どのような政治腐敗や汚職が起きても、デモもなければ抗議集会も開かれない。

 という「現代の若者」に共通点を見いだすことができましょうか。一方は「自由をはき違えて乱れた価値観をもつ」と内面のこと、もう一方は「傍目に非常識な行動をとる」という外見のことが説明されており、内容的にも対応させられないと思うのです。


 プラトンがいう「自由」が民主制を壊すというのはその通りだと思いますが、現代日本はむしろ経済的理由から崩壊するような気がします。


自由がもたらす隷属

 そして、大人たちは、うっかり注意でもしようものなら、「暴力の報復」がある。それを恐れて、何も言わない。真面目で、おとなしい若者のほうが「多数派」なのだろうが、声を発しないから分からない。

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 そして「大人」たちの暴力はより「おとなしくて力の弱い子どもたち」へ向かう。そっちのほうが問題だと思うのです。

自由がもたらす隷属

 教師のほうは、生徒を怖れて、これにへつらうし、生徒のほうは、教師を蔑ろにする。…(中略)…若者たちは、ことばにおいても、行為においても、より齢老いた人たちを真似て、これと熱心に競い、老人たちは、若者たちの線まで身を落としながら彼らを模倣し、快活さや機知で身をふくらませるのだ。    (『国家』第八巻、田中他訳)

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 ほらあ、プラトン先生のほうが分かってらっしゃる。若者の無責任や野放図は、「自由」を謳歌する老人たちの模倣。老人たちの若づくりの醜さにもきちんと指摘がなされていますよ。しかし野上氏はこれを(引用しておきながら)華麗にスルー。

自由がもたらす隷属

 あまりに行きすぎた自由は、個人と国家とを問わず、行きすぎた隷属以外のどこへも変化しない。


 僭主制とは、民主制以外の国制からあらわれてくるものではないようだ。思うに、極端な自由から、最も大きく、最もはげしい隷属があらわれてくるようだ。   (『国家』第八巻、田中他訳)

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 プラトンのこの予言が今の日本に的中しないことを祈るのみだ。

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 祈るのみですか! もっと他にやることあるでしょうに。

 この新書は2002年6月発行ということで、第一次小泉内閣を危険視するような文脈が見てとれますが、まあはずれてよかったよかった。