蜀犬 日に吠ゆ

2010-08-23

[][][]古今和歌集を読む 秋歌上(その7) 19:31 はてなブックマーク - 古今和歌集を読む 秋歌上(その7) - 蜀犬 日に吠ゆ

秋歌上

   題しらず   よみ人しらず


184 このまよりもりくる月のかげ見れば 心づくしの秋はきにけり

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

184 二漏れてくる月の光 四物思いに気の尽きる。

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

 というわけで、ここからは「心づくしの秋」。


秋歌上


185 おほかたの秋くるからに 我が身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

185 一二世間一般の秋が来るとたんに。 三我が身をこそ。第五句に係る。

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

 一年中悲しく思ってもよさそうですが、秋が来るとそう思うらしいです。暇になるのでしょうか。


秋歌上


186 わがためにくる秋にしもあらなくに 虫の音きけばまづぞ悲しき

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

186 五私のために来た秋であるかのように、まっ先に悲しくなる。

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

 自然の法則と自分の心情が対等であるとアプリオリに断言できてしまうあたりがセカイ系なんですけれども、根は深そうですね。


秋歌上


187 物ごとに秋ぞかなしき もみぢつゝうつろひゆくを限りと思へば

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

187 五これが最後だと思うので。

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

 佐伯先生の注はどういうことでしょう。「限り」は何の最後のことなんでしょう。紅葉が散ってしまえばそれでおしまいだからなのか、それともよみ人が高齢で、こんどの冬はもう越せなそうなのでしょうか。この歌の文句では、ちょっと情景が思いうかびません。まあ誰か紅葉を見つつ悲しい顔をしているのでしょうけれども。


秋歌上


188 ひとり寝(ぬ)る床は草葉にあらねども 秋くるよひは露けかりけり

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

188 一~三待つ人が来ないひとり寝の床は、草葉ではないけれども。まるで草葉みたいに。 五涙に濡れることをいう。

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

 「露」は秋の季語。別に季語ルールはありませんが、いかにも秋らしい失恋の歌ですね。妻問婚の時代にぼんやり待っているというのは……。これは女性の立場からの歌なんですね。完全に誤解してました。



[][][]孟子を読む 梁惠王章句上(その1) 20:47 はてなブックマーク - 孟子を読む 梁惠王章句上(その1) - 蜀犬 日に吠ゆ

王亦仁義を曰わんのみ

梁惠王章句上 凡七章

孟子見梁惠王、王曰、叟不遠千里而來、亦將有以利吾國乎、孟子對曰、王何必曰利、亦有仁義而已矣、王曰何以利吾國、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而國危矣、萬乗之國弑其君者、必千乗之家、千乗之國弑其君者、必百乗之家、萬取千焉、千取百焉、不爲不多矣、苟爲後義而先利、不奪不饜、未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也、王亦曰仁義而已矣、何必曰利、

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫
梁惠王章句上 凡七章

 孟子梁の恵王に見ゆ。王曰く、叟(そう)、千里を遠しとせずして来る。亦将に以て吾が国を利するあらんとするか。孟子対えて曰く、王何ぞ必ずしも利を曰わん。亦(ただ、惟)仁義あるのみ。王は何を以て吾が国を利せんと曰い、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰い、士・庶人は何を以て吾が身を利せんと曰いて、上下(しょうか)交(こもごも)利を征(と、取)らば、而(則)ち国危からん。万乗の国、其の君を弑する者は、必ず千乗の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は、必ず百乗の家なり。万に千を取り、千に百を取るは、多からずと為さず。(然れども)苟も義を後にして利を先にすることを為さば、奪わざれば饜(あ)かず。未だ仁にして其の親の親を遺つる者はあらざるなり。未だ義にして其の君を後(あなど、忽)る者はあらざるなり。王亦(ただ)仁義を曰わんのみ。何ぞ必ずしも利を曰わん。


 孟子がはじめて梁の恵王にお目にかかった。王がいわれた。「先生には千里もある道をいとわず、はるばるとお越しくださったからには、やはり(ほかの遊説の先生がたのように)わが国に利益をば与えてくださろうとのお考えでしょうな。」孟子はお答えしていわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり口になさるのです。(国を治めるのに)題辞なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国に利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。いったい、万乗(まんのくるま)の大国でその君を弑(あや)めるものがあれば、それは必ず千乗の領地をもらっている大夫であり、千乗の国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず百乗の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決して少なくはない厚禄です。それなのに(彼らが)十分の一ぐらいでは満足せず、その君を弑めてまでも(全部を)奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をすてさったものは一人もないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、これからは、ただ仁義だけをおっしゃってください。どうして利益、利益とばかりくちになさるのです。」

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 これが性善説だ! というわけで、これから順に孟子を読んでゆきます。

 ただ、孟子は論語ほどめぐまれた境遇にないので基本的にこの岩波文庫のみ読みます。中公クラシックスのは抄録なんですよね。なんでなのでしょう。

 あと、吉田松陰の『講孟余話』中公クラシックス もありました。まあその辺も適宜参照します。


 『講孟余話』冒頭を少し引き写しておきます。

題辞

 経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあると、道は明らかにならぬし、学問をしても益なく、かえって有害である。たとえば、聖賢といわれる孔子や孟子のような方も、自分の生まれた国を離れて他国に行き仕官しようとされたが、これはなんとも納得のいかぬことである。

 およそ君臣の関係と父子の関係とは、その意義・本質を同じくするものである。自分の主君は暗愚であるからといって自国を去り、他国に行って新しい主君に仕えようとするのは、ちょうど父親を頑固な愚か者だとして自分の家を飛び出し、隣家の年寄りを父親とするようなものである。孔子や孟子が、この君臣間の本義を誤られたことは、いかようにも弁解の余地ないところである。

吉田松陰/松本三之介訳『講孟余話』中公クラシックス

 吉田先生の器が小さいことがばれるのでここでいきなりげんなりする文章なのですけれどもね。「君臣間の本義」の創始者に対して、時代や距離を隔てて歪曲されたローカルルールを押しつけてどうするのでしょうね。

今時の衆、斯様の義は唱へ失ひ、餘所の佛を尊び候事、我等は一圓落ち着き申さず候。釋迦も孔子も楠木も信玄も、終に龍造寺・鍋島に被官懸けられ候儀これなく候へば、當家の家風にかなひ申さざる事に候。

和辻哲郎・古川哲史校訂『葉隠』上 岩波文庫

 的な発想と一緒で、哲学的・思想的にグレードが低い。

 しかしまあなぜか知りませんが日本での孟子軽視と吉田松陰重視がはげしいので、一応目を通す、みたいな。


 しかし、松陰先生はいいことを言うんですよね。

梁恵王章句上

 このとき恵王は、孟子に対して、まず国を利するにはどうしたらよいかを質問したが、それはそれなりに一つの志を持った君主というべきだろう。にもかかわらず孟子がこれを制したのはなぜか。

 思うに、仁義は道理上なすべきものであり、利益は、なした仕事の功利・効用として期待さるべきものである。道理を主とすれば功利・効用は期待しなくても自然とやってくるものである。逆に功利・効用を主とすると、道理を失う結果になることが少なくない。そのうえ功利・効用を主とする者は、やることがみななおざりになって最後までやりとげることが少ない。(略)いやしくも、ただ道理上当然なすべきことをひたすら行おうとつとめ、終始一貫怠らないならば、それ以上は、なんでことの成否を気にかける必要があろう。孟子が恵王の利を主とする心を制したのも、そのためである。

吉田松陰/松本三之介訳『講孟余話』中公クラシックス
梁恵王章句上

 これは、諸葛孔明が二度目の「出師表」で述べている「苦難をものともせずに全力を傾け、命のあらんかぎりくじけることはない。ことの成否や成績などということは、私にもはっきり予見できるものではない」という言葉の意味と同じである。

吉田松陰/松本三之介訳『講孟余話』中公クラシックス

 それが、性善説か。

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子 (中公クラシックス)

孟子 (中公クラシックス)