蜀犬 日に吠ゆ

2010-10-10

[][]高島俊男『座右の名文』文春新書 19:20 はてなブックマーク - 高島俊男『座右の名文』文春新書  - 蜀犬 日に吠ゆ

 最近すこし難しい本ばかり買ってしまったので全然読書が進まない部分があります。みなもと先生の「手塚組にはタッチがない」とかもいまだに理解できませんしね。

 で、『お言葉ですが…』の文庫本をぽつぽつ拾い読みなどしてお茶を濁していました。ところが、至誠は天をも感ずる、というとおおげさですが、本屋さんで未見の新書を発見。

ぼくの好きな十人の文章家 座右の名文 (文春新書)

ぼくの好きな十人の文章家 座右の名文 (文春新書)

 「まえがき」の短文が、なんというか感に堪えました。

まえがき

 <毎日ねころんで本をよみちらす。これが、ここ十数年来のわが生活である。

 なぜ「よむ」と言わずして「よみちらす」と言うか。本のかずが多いからである。通常毎日十冊以上はよむ。

 そのかわり、一つの本をおしまいまで通してよむことはめったにない。まあ五十冊に一冊くらいかな? それとも百冊に一冊くらいか。とにかく、ごくすくない。たいがいは途中でやめる。はやいのは一ページか二ページでほうり出す。毎日十冊以上ときいてビックリするにはおよびません。あわせて一冊分にもならないのだから。

 本の種類は多種多様である。とりとめもない。

 しからばわが本のよみかたは、あてどなく大海をただよう小舟のごときものかといえば、かならずしもそうでない。根拠地はあるのである。

 しばらくあれこれとよみちらしの漂流がつづくと、ほっといてもおのずからまた根拠地にもどる。ここにもどれば安心なのである。しばらくはここであそんで、またよみちらしの漂流へと出てゆく。

 根拠地で待っているのは、本というより、人である。その人たちの本をよめば、かならずおもしろいのである。

高島俊男『座右の名文』文春新書

 これが、最近数冊の本に挫折してつい『お言葉ですが…』に手が伸びる自分の心情をなぞってくれているようで嬉しかったのです。もちろん高島先生と小生ではよみちらす本の程度に差がありましょう。わたしのよむのはもっぱら新字新かなの「ガキ本」や、コミックのたぐいですからね。

 わたしの根拠地は、あんまりはっきりしません。とにかく読書量が少ないので頭の中でよんだ本が系統だてられていないのが原因なのですが、高島先生以上にジャンルにとりとめがないせいかとも思います。そもそも自分に専門らしい専門、自分の外の世界を認識する方法論が確立していないことに加えて脈絡のない読書傾向なのですから、むしろ本なんて、よめばよむほどバカになっていくのが目に見えるようです。

 でも、よむのをやめられないんですよねえ。

 ところで、高島氏の「座右の名文」自体、たいへん面白かったのですが、だからといってさらに言及された原典にさかのぼってよむか、といわれると困ります。たぶん高島先生も幸田露伴の読書を全部フォローしてはいなかったと勝手に忖度しまして、自分では納得しておきます。

 目次はキーワード「お言葉ですが…」に引用。

 それで、わたしが高島氏の本を「おもしろいのう、ヒーホ、ヒーホ」と言いながらよむ理由が、逆によめばよむほどわからなくなる、という時期もあったのですが、この本にはその理由もちゃあんと書いてあります。

まえがき

小生が、最も相性がいいと感じるのは斎藤茂吉である。つねに文章が正直で、鈍重でありながら爽快である。そしてしばしば間がぬけている。これは、意識してそういう効果をねらっているのか、それとも天性間がぬけているのか。両方まじっているのであろう。

 相性がわるいと感じるのは柳田國男である。どうも文章がねばる。これは無論、こういう粘着しながら前進してゆくタイプの文章に充実を感ずる人も多いのである。すきずきである。小生はくたびれる。

高島俊男『座右の名文』文春新書

 という所から言えば、わたしは高島文章と相性がいいのですよね。ところが高島氏の立ち位置や好き嫌いの判断には違和感を感じるので、ヒィヒィ笑いながらよんで、ときどき「ん?」と思うのでしょう。事実関係の部分ではないので、『お言葉ですが…』の文庫版に登場するみなさんのようにハガキ書くほどではないのですが。

柳田國男

 それはもちろん、柳田國男の作品で、たとえば『木綿以前の事』などの民俗学の論文にも、おもしろいと思って読むものはある。ただぼくのばあい、それは俳諧を理解するための副読本の位置づけであったり、なにかしらべたいことがあって読むものであったり、というものだ。読みものとしての魅力をいうなら、だんぜん文語文の『遠野物語』が一番なのである。

高島俊男『座右の名文』文春新書

 という一説がありますが、わたしは「お言葉ですが…」を読んで、全然別なときに「そういえば高島大先生がこの話してたなあ…」と読み返すのに喜びを覚えるたぐい、なので「筆記」とか「工具書」にフェティシズムをおぼえるたちなので民俗学もすきなのです。いや、でも、そういう本のよみかたって、幸田露伴より、高島先生から教えられたような感じなのですがねえ。もちろん高島翁なら「原典にあたれ!」というのでしょうが、ウソッコの「小説」をあんまり高く評価しない高島先生だと思っていたので、わたしの読み方がおかしかったのでしょうか……でしょうねぇ。