蜀犬 日に吠ゆ

2011-01-12

[][][]村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫 19:41 はてなブックマーク - 村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 あいかわらず小説は読まないのですが、よく読む村上さんのアメリカ在住エッセイ。一九九一年から二年半というから九三年まで、ニュージャージー州プリンストンに住んでいたそうです。

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 村上朝日堂に比べると、すこしシリアスな状況設定のため、「軽さ」のようなものは少なめ。

プリンストン――はじめに

 ぼくはここに収められた文章を書くことによって、さまざまな物事について僕なりにあれこれと考えることができた。しかしほとんどの局面において結論みたいなものは出ていない。だから残念ながら、これは「読めばすらすらアメリカがわかる」というような役に立つ本ではない。まあ何かの「足し」くらいになれば、著者としては本当にありがたいのだが。

村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫

 私が村上随筆を読むときは、だいたい「考えさせられるなあ」という「役」を期待して読みます(これが高島エッセイだと「面白くて、ためになる」を期待しています)。ので、今回も読みながらあれこれ心に思いうかぶことがあったのですが、そしていつも通り、それは村上さんの語っている内容とは別物であることが多いのですよね。たとえば村上さんがアメリカでホンダアコードを買って、走行距離もだいぶ増えたので次はフォルクスワーゲン……というような話をしているときに、わたしは(アメリカの、右側走行左ハンドルって感覚は想像するのが難しいなあ。それに想像の中では歩行者も自転車も見事に日本人ばかりで、これではアメリカの道とは言えないなあ……)なんてことを考えているわけですからね。これでは、本の内容が頭に入らないわけですよ。


 それと、読んでいて結構ぽろぽろ「この話、知ってる」という話題があり、この本前にも読んだのかなあ、と疑いましたがそれは、『夢のサーフシティ』で読んだのでした。この文庫本の発行が1997年で、ちょうどその頃が『スメルジャコフ対織田信長家臣団』ですからね。「サイ*パス」の話題とか、妙に懐かしい。

村上朝日堂 夢のサーフシティー

村上朝日堂 夢のサーフシティー

スメルジャコフ対織田信長家臣団

スメルジャコフ対織田信長家臣団


 メモとして

  • 梅干し弁当持ち込み禁止
    • ボストン・マラソンで見たジャパン・バッシングについて、またそれに関連する話題など。
    • アメリカでの、皇太子ご成婚への関心。

梅干し弁当持ち込み禁止

後日附記

 それから約二年を経た今では、日本叩きの傾向は表面的にはずいぶん弱まったようである。(略)

 でもそれとは別に、皇太子の結婚がアメリカ社会に対して果たしたパブリシティーもずいぶん大きかったように僕は感じる。とくに小和田雅子さんという個人が一般のアメリカの人々に及ぼした影響力は思いのほか強かった。ハーヴァード出のエリートということももちろん話題としては大きいけれど、多分彼女のパーソナリティーの中に何か人々を引きつけるものがあったのだろう。そりゃ皇室報道なんてものはどこの国でもミーハーなものなのだけれど、ミーハーなものは結構強いのだなという感を新たにした。ものごとというのは意外なところから開けていくものではないかという気がする。

村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫
    • 結構関心もたれていたのですね。そういう人たちは、現状を知らないままでいて欲しいものです。
      • とかいって、ひょっとすると愛子様の不登校は、結構注目されている可能性もあるわけで、おそろしい。
  • 大学村スノビズムの興亡
    • プリンストンにおける、「文化エリート」とその他の行動様式のコレクトさについて。
      • 購読する新聞、ビール、映画、音楽、自動車……これで「階級制度の残るヨーロッパ」などと言うのですから、日本がいかに適当か分かります。
      • 「新聞宅配なんて日本だけだ」と一刀両断する人がいますが、村上さんちには「NYタイムズ(週末版)」が毎週宅配されているようですよ。よその国のことというのは、分からないものですね。

大学村スノビズムの興亡

でも日本ではそう簡単にはいかない。たとえばオペラなんて流行じゃないよ、今はもう歌舞伎だよ、という風にどうしてもなってしまう。情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が想像に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。僕はそういう先端的波乗り競争にはもともとあまり関わってこなかった人間だけれど、でもそういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。あとにはしばらくは草も生えない。本来なら豊かで自然な創造的才能を持っているはずの創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足元を掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。

 そういうことを考えると、保守的だろうが、制度的だろうが、階級的だろうが、このプリンストン村みたいに「とにかくここはこうしておけば」というのがあれば、日本の文化人だってずいぶん楽だろうにと思う。末端のあたりは適当に型通りにすませておいて、そのあとは自分の好きなことを自分の好きなペースでやれるわけだから。

村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫
    • アメリカはスマートで、そこへ行くとわが国は泥くさい、と言えば済むことをよくも大げさに……「文化的焼畑農業」ってのは、当たっていますね。
      • たしかに、「時流に合わせる」ことに対する生活の比重が高くなればなるほど、自分の創作活動は控えざるを得なくなりますからね。

 こんな調子で引用しているともう収拾がつかなくなるので、またあとで、引用少なめで感想を書きたいものです。