蜀犬 日に吠ゆ

2011-02-03

青木健『マニ教』講談社選書メチエ 21:27 はてなブックマーク - 青木健『マニ教』講談社選書メチエ - 蜀犬 日に吠ゆ

 うーむ。結構衝撃的な内容。

マニ教 (講談社選書メチエ)

マニ教 (講談社選書メチエ)

 裏表紙に「ゾロアスター・イエス・仏陀の思想を綜合し、古代ローマ帝国から明代中国まで東西両世界に流布しながら今や完全に消失した「第四の世界宗教」」とあって、わたしの認識もそうだったのですが、この記述は正確ではなかった! ということは編集者は原稿を読まずにこの説明文を書いたのでしょうか。

謎の洗礼教団

一九六九年にケルン・マーニー・コーデックス(以下 CMC )が発見され、マーニー教の内部資料によって教祖の前半生が詳らかになったのである。CMC に従えば、この「謎の洗礼教団」とはエルカサイ教団であった。エルカサイオス(アラビア語でアル・ハスィーフ)とは、一〇〇年前後に「天使から啓示を受けた」と称してシリアで宣教していたユダヤ・キリスト教の指導者。彼が創始したエルカサイ教団とは、『エルカサイオスの書』を中心に据え、新約聖書やパウロとは距離を置く独特のユダヤ・キリスト教系新興教団である。

 マーニーが極度の反ユダヤ教的思考の持ち主であることはあまねく知られていたので、まさか当のユダヤ・キリスト教団の出身だったとは、研究者にとって驚天動地の結論だった。クルト・ルドルフは最後まで CMC を偽作文献と疑ったものの(Rudolph 1974)、一九七〇年代半ばまでには CMC の真正性を承認せざるをえなくなった。すなわち、四才から二四歳までをエルカサイ教団内で過ごしたマーニーにとっては、後に反抗してそこから離脱するにせよ、思想的な起源の点でユダヤ・キリスト教の流れを汲んでいることは疑いえなくなったのである。これ以降、CMC 発見以前に言われていたような「マーニー=ゾロアスター教、ギリスト教、仏教の総合者」とする学説は影を潜めた。現在では、ゾロアスター教や仏教的な要素は壮年期以降の伝道の過程で吸収していったもので、マーニーのオリジナルの思想にはほとんど影響を及ぼしていないと考えられている。

青木健『マニ教』講談社選書メチエ

 むしろ、ゾロアスター教の影響が少ないというのが驚き。しかも、シャーブフル1世に提出した『シャーブフラカーン』は、七聖典に含まれなかった、というのですから驚きです。



[][][]小なる章を読む(その11) 22:28 はてなブックマーク - 小なる章を読む(その11) - 蜀犬 日に吠ゆ

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

欲に溺れて、さらに欲念が増長した

第二 小なる章

七、バラモンにふさわしいこと

三〇三 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、――馬の祀り、人間の祀り、擲棒(なげぼう)の祀り、ヴァージャペッヤの祀り、誰にでも供養する祀り、――これらの祀りを行なって、バラモンたちに財を与えた。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 うまいことやりましたね。

第二 小なる章

七、バラモンにふさわしいこと

三〇四 牛、臥具、衣服、盛装化粧した女人、またよく造られ駿馬に牽かせる車、美しく彩られた縫物――、


三〇五 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。


三〇六 そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、再び甘蔗王に近づいた。


三〇七 「水と地と黄金と財と穀物とが生命あるひとびとの用具であるように、牛は人々の用具である。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」


三〇八 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた。


三〇九 牛は、脚を以ても、角を以ても、何によっても決して(他のものを)害(そこな)うことがなくて、羊に等しく柔和で、瓶をみたすほど乳を搾らせてくれる。しかるに王は、角をとらえて、刃を以てこれを屠らせた。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 やりたい放題ですな。


 ちなみに、お祀りに関する註。

三〇三 擲棒の祀り――sammapasa(=Skrt. samyaprasa, samyaksepa)。samya とは、棒、木釘、ある祭式用具の名であり、それを投げる儀式をいう。

 ヴァージャペッヤの祀り――Vajapeyya(=Skrt. Vajapeya).ソーマ祭の一種。vajam ettha pivantiti vajapeyyo(Pj. p322).この祭では、精力と想定されるものを飲み、精力をつけると考えられていた。

 誰にでも供養する祭り――Niraggala. 漢訳仏典でいう「無遮大会」に相当する。n'atthi ettha aggalo ti niraggalo(Pj. p322). niraggala(←nis + aggala)とは、さまたげのない、範囲を制限しない、の意。'unobstructed, free, rich in result'(PTS. Dict.). ヴェーダ祭式の体系においては、特にnirargala(SDkrt.)という祭祀は存在しない。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 擲棒は、中国の投壺みたいな娯楽でしょうか? とにかく王様に無駄遣いさせたわけですね。