蜀犬 日に吠ゆ

2011-03-26

[][][][][]春のうた を読む(その1) 15:07 はてなブックマーク - 春のうた を読む(その1) - 蜀犬 日に吠ゆ

1

 石(いは)ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも

             志貴皇子(しきのみこ)

 『万葉集』巻八の巻頭を飾る。春の名歌として愛されてきた。「石ばしる」は石の上をはげしく流れるさまをいう。「垂水」は滝。石の上をはげしく流れる滝のほとりに、さわらびも芽を出す季節になったのだ。冬は去った、さあ、野に出よう。

 志貴皇子は天智天皇の皇子。万葉には六首残すだけだが、おおらかな調べは天性の歌人たることを示している。右の歌は『新古今集』にも若干歌詞を変えて採られている。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 「さあ、野に出よう」は大岡先生のつけたしですね。新聞読者へのメッセージでしょうか? 志貴皇子は(写生の原則からは)とうぜん滝の上にいて蕨をみているのでしょうからね。

 いまだと、「萌え」の解釈がもうすこし説明を要しますかね。冷たくて暗い冬の土の中から、明るいところへと生命力を躍動させるような蕨に、皇子も力づけられたのでしょう。 


2

 酒坏(さかづき)に梅の花浮け思ふどち飲みての後は散りぬともよし

          大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいつらめ)

 『万葉集』巻八。作者は万葉女流歌人の大立者で、大伴旅人(たびと)の異母妹。家持(やかもち)には叔母だが、郎女の娘が家持の妻となったから、彼の義母ともなった。梅花の下での心通い合う人々との酒宴をたたえる。一同うたげに歓を尽くしたのちは、花は散ってもかまわない、という。そういう形で、酒興を一層盛りたて、同時に梅の命をも愛惜しているのである。貫禄を感じさせる歌だ。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 「貫禄を感じさせる歌だ」という締めくくりのほうが貫禄を感じる。というか大岡先生このころから大御所だったのでしょうか。重陽(旧暦九月九日)のころ、杯に菊の花を散らすのは中国からのでんとうですが、これはどうもそうではないようですね。

 梅の花の下で酒宴を張るのだからとうぜん花びらが舞い落ちてくる。杯に入って浮かんでみよ、と誘っているんでしょうね。

 ただ、「うたげに歓を尽くしたのちは、花は散ってもかまわない」というのが「愛惜」になるのかはわからないですよね。楽しむだけ楽しんであとはゴミも片付けずに帰っていく花見客のような印象を、わたしなどは覚えてしまいました。

 むしろ、「花とともにわれらも散る身、いまはただ飲め、歌え」という無常観を感じてしまうのです。もちろん、大伴旅人が活躍した8世紀前半の仏教は、まだまだ鎮護国家の金剛不壊のガッツあふれる宗教でしたから、わたしの印象が現代人のあとづけなのでしょう。しかし、学問的に考察する時ではなくて万葉の歌を鑑賞する時、そういうある意味偏見があってもいいかな、とは思います。大岡先生の解釈を「常識」として理解するのとは別に。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)


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 橋本治『大不況には本を読む』中公新書ラクレ という本がありまして、はなしの内容はばっちり忘れたのですが、タイトルだけは妙に心に残っております。

 で、日本全体だけでなくて、私個人としても大絶賛大不況なものですから、またじわじわ本でも読むかと。放心しているうちにもう2週間ですからね。被災者でもないのに。

 しかし、問題もあります。個人的に大不況ということですから、新しい本をほいほい買ってくるというのはすこし控える必要を感じる、そこで昔の本を引っ張り出して読み返す運動を推進したい。

 その結果、とりあえず日本語の基本を見つめ直すためというか、詩歌を読むことにし、『折々のうた』なんかどうだろう、ということになったわけです。

あとがき

 本書は一九七九年(昭五四)一月二十五日、朝日新聞創刊百周年記念日から、同紙朝刊(ただし九州の西部本社版だけは夕刊)に連載されているコラム「折々のうた」の一年分をまとめたものである。新聞休刊日を除いて連日掲載されたので、およそ三百五十回分ほどが第一集としてここにまとめられている。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 新聞紙上の初出もかいておいてほしかったのですが、まああんまり贅沢言っちゃいけないぜ。

あとがき

 新聞コラムでは、引用の詩句をのぞく本文部分が百八十字と限られている。その限定は、私にとって必ずしも窮屈とは感じられず、むしろ伸縮自在の枠組みという感じがあって、ほとんどの場合はそれの制限内で書くことが一種の楽しみでさえあった

大岡信『折々のうた』岩波新書

 この書きぶりだと、「引用を除いて180字」というのは窮屈なミニコラム、という感覚なのでしょう。21世紀には、引用込みで140字というのが世界を席巻していますからね。大岡先生、こういう状況は如何。

 で、大岡先生が連載したコラムの目的とは。

あとがき

 『折々のうた』で私が試みたことについては、年の初めにこの新書の予告が新聞広告に出た時、もとめっられて広告用に書いた「これから出る私の新書」という一文を引いておくのが便利だと思う。

 (自家宣伝めくことを思いきって言わせてもらえば、『折々のうた』で私が企てているのは「日本詩歌の常識」づくり。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫。この常識を、わけても若い人々に語りたい。手軽な本で。新聞連載は続くが、まず一年分をまとめる。)

大岡信『折々のうた』岩波新書

 わたしはおっさんですが、もちろん常識は完全に欠落しております。

 ということでミーハーなわたくしとしては当然飛びついて何度か読み返したはずなのですが、当然のように読んだ順に忘れていくわけで、すこし時間をかけて読んで言ってみようか、ということを考えております。

 ただまあ、いままでの輝かしい挫折歴がありますから、いつまで続くものやら……

 ぼちぼちやります。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

大不況には本を読む (中公新書ラクレ)

大不況には本を読む (中公新書ラクレ)