蜀犬 日に吠ゆ

2011-03-27

[][][][][]春のうた を読む(その2) 16:33 はてなブックマーク - 春のうた を読む(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

3

 あはれなりわが身のはてやあさ緑つひには野べの霞と思へば

             小野小町(おののこまち)


 『新古今集』巻八哀傷歌。前回掲出の大伴坂上郎女の歌にも花の命に託した生への愛惜があったが、歌は晴れやかだった。平安初期の小町の歌になると、生への無情へ注ぐまなざしに憂愁の色が深まる。野べの霞というのは、死んで火葬されるとき、その煙がたなびくさまを言ったと解されているが、この歌の生みだす広がりをもった影像と、それが与える感銘は、そんな解釈に限定されないところがある。春愁と、生の無常迅速と。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 こちらは完全に無常観に満ちていると言ってよいのでしょうね。小野小町はなんでいつもこんなに暗いのか。そして、そんなに暗い彼女が人気者であり芸術の力で永遠に生き続けているというのも不思議なものです。


4

 春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ少女(をとめ)

             大伴家持(おおとものやかもち)


 『万葉集』巻十九巻頭に、春の園の桃と李(すもも)をながめて作った歌二首を掲げるうち、桃の歌。家持三十四歳当時の三月一日、国守だった越中での作。「にほふ」は色美しく映える意。家持は植物好きだったらしい。庭にいろいろな花木も植えていただろう。ただ、この有名な歌、実景だろうか。桃は満開だったとしても、少女は家持がよび出した夢の乙女ではないのか。歌からの想像で、確たる根拠はないのだが。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 たしかに「出で立つ」という語には力強さのような感じがありますから、何もない空間に少女の姿が現れてきたという解釈が成り立ちますね。

 「ターナーが描いたような島」があったら、そこにマドンナをたたせてみたいというのは野太の専売ではない、という話でいいのでしょうか。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)