蜀犬 日に吠ゆ

2011-04-11

[][][][][]春のうた を読む(その17) 19:31 はてなブックマーク - 春のうた を読む(その17) - 蜀犬 日に吠ゆ

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 春の夜の夢の浮橋(うきはし)とだえして嶺にわかるる横雲(よこぐも)の空

           藤原定家(ふじわらのていか)

 『新古今集』春上。定家は中世和歌の第一人者。歌論も抜群だった。春夜の夢のはかなさを浮橋といったのだが、ヒントは『源氏物語』の終巻「夢の浮橋」から来ている。春夜の夢がふととぎれた。その時、山の峰では、横雲がつと峰に別れて漂い出そうとしている。文字づらの意味はそれだけだが、夢の浮橋とか峰に別れてゆく横雲とかは、物語の男女の世界を連想させずにはおかない。作者の意図もそこにあろう。歌に物語の富を奪還せんとしたのである。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 大岡先生の脳内では、文学の富が紫式部に奪われたことになってるんですね。文学の良さというのは、そういう作品たちが響き合って豊かさ、深さを増やしていくことにあると思う私には、「奪還」の発想がありませんでした。

 春の夜というのは、「春宵一刻値千金」といわれるくらいですからぼちぼちくれてくるころが価値が高いとされ、お花見もそのくらいの時間で開催されるものが多いように思います。会社が終わってからという理由では、年がら年中ヒマヒマな学生たちも日暮れ頃に湧いてでる現象に説明がつきません。

 一方定家の歌は、寝ているところをふと起きたというのですから夜半にかかっていると考えるのが普通。冷え込んでくる日の出前かも知れませんね。またすぐ寝ればいいのに、遣り戸を開いて山など見てしまうくらいでないと歌人とはいえないのかも知れません。あるいは単純に寝る前に閉め忘れた、とかね。

 山の嶺と横雲が隠し持つ意味に関しては、まあそうなんでしょうね。


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 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに     芭蕉(ばしょう)

   かぜひきたまふ声のうつくし       越人(えつじん)

 『芭蕉七部集』中『曠野(あらの)』所収の連句「かりがねの巻」より二句。連句は五七五の長句と七七の短句を交互に連ねて長編とするもので、作者は数人の場合が多い。芭蕉一門の力が抜群。芭蕉はその最高の作者兼指導者だった。王朝男女のきぬぎぬ(一夜明けての別れ)の景を二句の連りによって作っている。男を送り出す姫君の消え入らんばかりのはじらい。風邪声なのがまたひときわ魅力的で。「あてやか」はみやびやかの意で、「あでやか」とは別。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 俳諧の連句というのは短い「歌仙」の形式でも三十六句つくります。前の句の印象を受け止めつつ、全く同じ内容で句をつけてはいけないので、詠んでいくうちに情景も登場人物も状況も、どんどん変わっていきます。その発想の飛躍や呼吸の妙を楽しむもの。俳句(というのはこの連句の頭に詠まれる発句なんですが)だと五七五の中で「切れ」に工夫を凝らすのですけれども、まあそれをみんなで車座になってやる、といえましょうか。テキトーな説明ですけど。

 ですから、大岡先生の解説で問題ないんですけど、芭蕉が想定した殿方と姫君の別れの場面と、風邪声のうつくしい女の人というのは同一人物ではない可能性が高いんですよ。ついでなのでこの前後も見てみましょう。(引用者moriが新字旧仮名に改めました。)

足駄はかせぬ雨のあけぼの   越人

きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに  芭蕉

かぜひきたまふ声のうつくし  越人

手もつかず昼の御膳もすべりきぬ  芭蕉

中村俊定校注『芭蕉七部集』岩波文庫

 「足駄」といってるんですから江戸下町の職人さんでしょうかね。稼ぎに「行ってくるぜぇ」という頃合いなのに、「雨降ってるからなぁ、仕事やだなあ」とかうじうじしている。

 →あさ、すぱっと出かけられないんじゃまるで「きぬぎぬ」だ、王朝貴族じゃあるめえし! 貴族のきぬぎぬだと、かぼそく「さよなら」とか言って、みやびやかだよねえ。

 →か細い声、いいねえ! だいたい俺は、風邪気味のときのかすれ声なんか出してる女の子、好きだなあ。

 →風邪で体調悪くて、大声も出せないと料理屋で困るよね。食べる前からお勝手に下げられちゃったりして(笑)

 近世文学というより、おっさんがダベっているだけのようにも見えますが、こんな内容を文学にまで高めたからこそ松尾芭蕉は教科書にまで載るような有名人になれたのでありました。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

芭蕉七部集 (ワイド版 岩波文庫)

芭蕉七部集 (ワイド版 岩波文庫)