蜀犬 日に吠ゆ

2011-04-29

[][][][][]春のうた を読む(その35) 19:31 はてなブックマーク - 春のうた を読む(その35) - 蜀犬 日に吠ゆ

69

 目には青葉 山時鳥(やまほととぎす) 初鰹(はつがつを)

               山口素堂(やまぐちそどう)


 作者名は関係なしに多くの人に愛唱されている句の代表格だろう。素堂は芭蕉と親交のあった江戸の俳人。諸芸に通じていた人という。句は「鎌倉にて」の前書がある。目のためには青葉、耳のためにはととぎす、初夏の最もさわやかな景物が鎌倉にはある。それさえあるに、舌のためには鎌倉名物の初鰹までも加わって、何と気持のいい土地か、という。初物好きの江戸人は、初鰹を大いに好んだ。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 おい! 何で春のうたに「初夏の景物」なのだ!

 「青葉」「時鳥」「初鰹」みんな夏の季語なので、季重なりもいいところ。将棋でいうなら「二歩」どころか「三歩」ですよ。春も終わりとはいえ、この暴挙は許し難い。


 ところで、江戸時代の江戸で鰹が不当に珍重されたことを嘆く方々もいらっしゃいますが、実際にはそれは鎌倉時代から始まった風習でした。

 江戸の川柳に曰く、

 「初鰹なに兼好が知るものか」

 兼好法師と言えば、鰹を下魚扱いした戦犯扱いされていますが、まあ保守本流なのですから仕方ないと言えば仕方ない。


第百十九段

 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚(うを)は、かの境ひには、さうなきものにて、この比(ごろ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍(はんべ)りしは、「この魚(うを)、己れら若かりし世までは、はか\゛/しき人の前へ出づる事侍(はんべ)らざりき。頭(かしら)は、下部(しもべ)も食(く)はず、切りて捨て侍(はんべ)りしものなり」と申しき。

 かやうの物も、世の末(すゑ)になれば、上(かみ)ざままでも入(い)りたつわざにこそ侍(はんべれ)。

安良岡康作『徒然草』旺文社
第百十九段

 鎌倉の海岸で、鰹という魚は、あの地域では、無上のものとして、このごろはもてはやすものである。その魚も、鎌倉の古老の申しましたところでは、「この魚は、わたしどもがまだ若かった時世までは、ちゃんとした方の御前へ出ることはございませんでした。頭は、下部も食べず、切って捨てましたものです」と申しました。

 こうした物も、末世となると、上流階級にまでも入りこむという次第でございます。

安良岡康作『徒然草』旺文社
徒然草 (対訳古典シリーズ)

徒然草 (対訳古典シリーズ)


 冷蔵冷凍技術のない時代、それぞれの旬を味わうことが最ももてなしの基本であったことでしょう。上方の人たちは鱧を尊んで鰻をその下に置きますが、坂東でも、別にうまい鱧を拒んだわけではないんです。鎌倉に政権が現れて貴顕がおとなうような事態に、箱根より西の食材でもてなすのは、むしろ失礼だと思っても、悪くはないでしょう。

 江戸時代の江戸の人は、今度は。鴨川のほとりに暮らす人を「鰹のうまさをしらねえ」と茶化すわけですが、それはそれで無理でしょう。無茶でしょう。


 そう思うと、素堂が「鎌倉」と言っているのは、古式を踏まえての事だと好感が持てます。鰹のゆかしい土地は鎌倉なんですよね。いま、鰹というと高知ですけど。実際は三陸沖でもとれたし、土佐の「鰹なら土佐」アピールはちょっと過剰に思えます。


70

 白牡丹といふといへども紅(こう)のほか

          高浜虚子(たかはまきょし)


 『五百句』(昭一二)所収。大正十四年作。牡丹の美には原産地中国の感触がある。艶麗豪華な点で、桜などとは持味が違う。花王とよばれ、百獣の王獅子と好一対とされた。その特徴をつかんで、中国趣味の人蕪村は、「方百里雨雲よせぬ牡丹かな」と嘆じたが、虚子には虚子の牡丹があった。すなわち清楚な白牡丹である。しかしただ白なのではない。ほのかに紅をさしている、そのかそけさと深さ。別名「深見草」の本意を言いとめたような句である。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 牡丹は、花札でいのししと一緒にポーズを決めている極彩色のヤツしか知らん。あとで牡丹園に行ってみようかしらん。花弁の細やかさと花輪の端正さは好きだなあ。白牡丹にうすく紅がかかっているなんで、素敵すぎます。

 花王って、花王でしょ。あれ月じゃん。P&G とかぶってるから訴訟合戦して欲しい。どっちがわるいの? あと、おかめ納豆とおたふくソースも訴訟合戦して欲しい。家人からおかめとおたふくは同じだと言われて、全然別会社だ! って叫んだ時僕の良心はちくちくとした痛みを感じたんだ。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)