蜀犬 日に吠ゆ

2011-05-09

[][][][][]夏のうた を読む(その6) 19:26 はてなブックマーク - 夏のうた を読む(その6) - 蜀犬 日に吠ゆ

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 馬を洗はば馬のたましひ冴(さ)ゆるまで人恋はば人あやむるこころ

                 塚本邦雄(つかもとくにお)


 『感幻楽』(昭四四)所収。現代歌人中随一の才華の人で、歌集はじめ、評論、小説その他の多産さでも並ぶ者がない。右は「隆達節によせる初七組唄風カンタータ」と副題する「花曜」連作の一首。初句が五音でなく七音で起こされ、『梁塵秘抄』『閑吟集』『隆達小歌』『田植草紙』などの中世・近世歌謡から、詞華の富を奪いとるべく敢行した試み。「あやむ」は殺す。歌謡調の歌いぶりを現代の鋭い神経が貫通する。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 初句の七音で違和感を覚え、下の句で「ストーカーは犯罪!」以上の感想はない句。でも、これって強烈な皮肉なんですよね。よく、熟練した職人さんとかが「木の気持ちを考えてやすりをかけて」とか「鉄の気持ちがわかるんですわ」。バカじゃないのか。「これだけ長く飼っていると、動物の気持ちがわかるんですよ」とか言いますけれども、反論の機会が与えられていないわけですよ。愛玩動物などはそうですけど、生殺与奪の権を持っている人に対してどういう態度を示すのか、それを考えない人がいるのはいいけど、美談ではないよな? 死んだ動物を銅像にして、「こんなみんなに見てもらって、あの子も幸せでしょう」って、そんなことないと思う。


 馬を洗う。馬の魂なんぞ知りもしないのに、そこに達したいと思う。これを人は美談だという。人を恋する。好きな人を独り占めしたくて殺す。これは、頭おかしい。


 塚本邦雄は、原子力発電所に対しても皮肉な歌を詠みまくった左翼(要出典)ですから、いいんですけど。インターネットにあった歌は

原子炉大内山に建設廃案となりにけりすめらみこと万歳?  「風雅黙示録」所収。1996年(平成8年)刊。

 まあ五七五七七とかどうでもいいわけで、何を言ったのかが大切なんだよ。

 「大和魂」とか「好きだった」とか「距離をとれば安全だ」とか。世の中の欺瞞を歌ったわけですなあ。


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 面影ばかりのこして あづまのかたへくだりし人の名は しら\/゛といふまじ

                        閑吟集


 近世歌謡の粋(いき)をみせた一編。愛する男が東国へ去ってしまった後、残された女がふともらした溜息。面影ばかり残して、という表現の省略法は小気味がいい。「しらじらと」はあからさまに。しかし、「しら」という音は、その人の名は、「知らず」の意味をも含ませた使い方だろう。あの人の名は決して言うまい、胸の奥に隠しておいて。この東に下った男を、傷心流浪の旅に出る業平のような男に擬(ぎ)してみるのも一興だろう。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 業平は「ほとぼりを冷ますため」にいったん都を出たのであって、余裕で戻ってくる。芸能人の覚醒剤みたいなものでしょう。全然反省はなくて「その場をしのげればいい」という判断。小林多喜二の不審死すら覚悟した、ある意味ジャンヌダルク的精神とは違う。

 大岡先生と、だんだんずれてきましたよ。私は心が狭いので、こうやって本を読むのは「こいつは俺とはあわない」を確認するためなんです。

 「いふまじ」と心に誓わなければならない状況に置かれたわけでしょう? ばーんと出てきて「この人を責めるな! おれは逃げも隠れもしない!」というのが私の脳内の文学。余裕であづまでのうのうとするのは、ドキュメンタリー。「粋(いき)」で定義するなら、私の中ではぶすい。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)