蜀犬 日に吠ゆ

2011-05-31

[][][]情報を広める時は、きちんと確かめましょう~~安良岡康作『徒然草』旺文社 13:52 はてなブックマーク - 情報を広める時は、きちんと確かめましょう~~安良岡康作『徒然草』旺文社 - 蜀犬 日に吠ゆ

第二百三十六段

 丹波に出雲(いづも)と云ふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。しだの某(なにがし)とかやしる所なれば、秋の比(ころ)、聖海上人(しやうかいしやうにん)、その外(ほか)も人数多(あまた)誘ひて、「いざ給(たま)へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信(しん)起(おこ)したり。

 御前(おまへ)なる獅子・狛犬、背(そむ)きて、後(うしろ)さまに立ちたりけれえば、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様(やう)、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原(tのばら)、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔(かほ)したる神官(じんぐわん)を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられ様、定めて習(なら)ひある事に侍(はんべ)らん。ちと承(うけたまは)らばや」と言はれければ、「その事に候。さがなき童(わらはべ)どもの仕(つかまつ)りける、奇怪に候ふ事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直(なほ)して、往(い)にければ、上人の感涙いたづらになりけり。

安良岡康作『徒然草』旺文社
徒然草 (対訳古典シリーズ)

徒然草 (対訳古典シリーズ)

 確認は大事。デマの拡散を防いだ、というおはなし。さすが上人。徳が高い。尊~い。

第二百三十六段

 丹波の国に、出雲という所がある。そこに、出雲大社を勧請して移し、社殿を立派に造営してある。しだの某とかいう人が領している土地なので、そのしだの某が、秋のころに、聖海上人やそのほかにも多くの人を誘って、「さあおいで下さい。出雲神社の参拝に。かいもちいをご馳走しましょう」と言って、その一行を連れてずっと一緒に出雲まで行ったところ、めいめい出雲神社を拝して、えらく信仰心を起こしたのであっった。

 その時に、神社の社殿の前に置いてある獅子と狛犬が、背中を向け合って、後向きに立っていたので、聖海上人は、ひどく感心して、「ああ、何と素晴らしいことだ。この獅子の立ち方は、とても珍しい。きっと、深いいわれがあろう」と思うと、目に涙をもよおして、「どうです、皆さん、この素晴らしいことをご覧になって不思議にお思いになりませんか。それでは、あんまりです」と一行に向かって言ったので、めいめい不思議がって、「ほんとうに、ほかの獅子・狛犬とちがっているなあ」、「都へのみやげ話にしよう」などと言うと、上人はいっそう、そのいわれを知りたいと思って、かなりの年配らしく、いかにもものを心得ていそうな神職の人を呼んで来て、「この御社の獅子をお立てになる仕方は、きっと、由緒があることでございましょう。ちょっと、それをうかがいたいものです」と言われたところ、「そのことなのでございますよ。いたずらなこどもらが致しました、けしからんことでございます」と言って、そばに寄って、向き合うように置きかえて、去って行ったので、上人の感激の涙は無駄になってしまった。

安良岡康作『徒然草』旺文社

 きっと、無駄じゃなかったと思う。


[][][][][]夏のうた を読む(その22) 19:34 はてなブックマーク - 夏のうた を読む(その22) - 蜀犬 日に吠ゆ

43

 全長のさだまりて蛇すすむなり

         山口誓子(やまぐちせいし)


 『和服』(昭三〇)所収。誓子は大正末年に俳壇に登場するや、素材の新、表現の果断明確という、新人の名にふさわしい作風でたちまち頭角を現わしたが、中年以降、沈鬱な人生観が加わって、句に剛直な魅力が添うた。右は昭和二十四年、五十代に入るころの作。蛇は身をくねらせて進むが、その動く姿を「全長のさだまりて」と見すえた所が句の眼目である。人生上のある覚悟に通じるものがある。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 長く見える時も、短く見える時も、同じ長さが伸びたり縮んだりしているだけだ。等身大の自分は変わらない、という「覚悟」というより「確認」の句に読み取れました。


44

 音楽漂(ただよ)う岸侵(おか)しゆく蛇の飢(うえ)

               赤尾兜子(あかおとうし)


 『蛇』(昭三四)所収。大正十四年生れの戦中派。近年作風に転換が生じているが、昭和三十年代いわゆる前衛俳句の先頭に位置した一人。句は初五で切れる。写生句でないから読者も想像を働かす必要がある。蛇の飢えが岸をじわじわ侵してゆくというのは超現実的な空想だが、背景には作者の精神の緊迫した不安、渇きがある。その時同時に音楽が「漂う」。音楽もまた暗い不安の象徴となるのである。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 蛇の句連続か。しかし初五が「音楽漂う」って、全然五音になっていない。それが、前衛ということでしょうか。

 音楽が不安さを表現するのは、「漂う」つまりどこか(遠く)へ行ってしまうとしているからではないかと思います。そして、作者のもとに近づいてくるのは飢えた蛇。ここでは、結構な数の蛇の群れとしたいです。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)