蜀犬 日に吠ゆ

2011-06-09

[][][][][]夏のうた を読む(その31) 19:23 はてなブックマーク - 夏のうた を読む(その31) - 蜀犬 日に吠ゆ

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 水塩(みずしお)の点滴(てんてき)天地(てんち)力合(あわ)せ

                  沢木欣一(さわききんいち)


 『塩田』(昭三一)所収。昭和三十年代、いわゆる社会性俳句論議の中心部にいた作者が、能登の原始的な揚浜式塩田を訪れての作。なぎさ近くの塩田に海水をまき、炎天の陽にさらす。単調な重労働をくりかえすうちに塩水はしだいに濃くなる。これが水塩。それを鉄のかまにためて煮つめ、塩を得る。したたる水塩のしずくは辛酸の結晶。一滴一滴に天地が力を合わせているのが感じられたのだ。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 それを「点滴」というか。事情を知らないから「生理食塩水」だと思ってしまった。とするなら、この句は説明不足でしょう。社会性俳句てえのは初めて知りましたが、こうして時代がたつと古びてしまう芸術作品もありますよねえ。(「ポケベルが鳴らなくて」って、今の平均的な十代には言葉の意味不明だと思いますよ。)



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 行きなやむ牛のあゆみにたつ塵の風さへあつき夏の小車(おぐるま)

                       藤原定家


 『玉葉集』夏歌。牛車、つまり牛にひかせる乗用の屋形車だろうか。炎天にあえぎ、人はもちろん牛までものろのろ歩む。その足元から乾いた塵ほこりが舞いたつ。抜群の耽美的作風の歌人定家に、この印象的な作があるおもしろさ。「むしますなあ」「どこぞ涼しい川べりにでも」。古都の夏は王朝の余映の時代にもやはり暑かったのだ。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 牛なんて、暑ければだらけて寒ければ不活発になる人間と同類でしょう。


 ところで森銑三先生が定家の悪口を言って、

四十二

定家の歌を見る眼

「古今集」は選集としてあれだけの歌の数を集めたのだから、中に凡歌が這入っていても、情状の斟酌すべき余地がある。定家は「小倉百人一首」にただ百首を選ぶのにも、随分詰まらぬ歌まで採っていて、その粒が揃わない。定家の歌を見る眼の低かったことは、その一事にも知られるじゃないか、といった人がある。

森銑三『落葉籠』中公文庫

 で、定家が撰者に連なったのは『新古今』なので「いった人」は何か勘違いしているか、子規の『歌よみに与ふる書』で紀貫之をdis ったようにポジショントークなのかは分かりません。

 新古今が優れていて百人一首が駄目だというのは、ようするに下命者の差、ということになれば、dis られているのは宇都宮入道。!? ドラえも~ん、爆弾をくれえ。「いった人」を殺して僕も死ぬ!

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

落葉籠〈上〉 (中公文庫)

落葉籠〈上〉 (中公文庫)