蜀犬 日に吠ゆ

2011-07-13

[][]森博嗣『科学的とはどういう意味か』幻冬舎新書 20:23 はてなブックマーク - 森博嗣『科学的とはどういう意味か』幻冬舎新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 災を受けて語りかけ方が変わったとのこと。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

 しかし、内容は森先生のいつもの話の繰り返し、という気もします。

 箴言集みたいな 森博嗣『変問自在』集英社新書 を読み返したほうがマシな内容でした。『浮遊研究室』も、読みたいのですが本屋にないんですよ。『スカイ・クロラ』の映画化で森ブームが来るのかと思ったら、うちの田舎ではまったく風が吹きませんでしたね。ダウン・ツ・ヘブン。

 しかし森先生の小説にはまったく興味が湧かないこの不思議。エッセイとか企画ものは大好きなのに。私の中ではこの人と村上春樹さんがそういう対象ですね。『海辺のカフカ』に興味が湧かないので、買って置いてある『少年カフカ』を読んでない。

 こういうのは、単純に相性だと思っていますので、別に無理に好きになろうとはしませんねえ。

 森先生の『すべてがFになる』が、藤本的な意味の「F」なら超絶読むんですけれどもねえ。


 それで思い出した。瀬名秀明『のび太と鉄人兵団』小学館。文庫版が出たら読もう。

 あと、辻村深月『凍りのくじら』講談社 の朝日の書評で、この人の作品はひみつ道具が作中にざくざく登場すると書いてあったので読みたいけれど、お金ない。

―森助教授VS理系大学生 臨機応答・変問自在 (集英社新書)

―森助教授VS理系大学生 臨機応答・変問自在 (集英社新書)

臨機応答・変問自在 2 (集英社新書)

臨機応答・変問自在 2 (集英社新書)

スカイ・クロラ

スカイ・クロラ

ダウン・ツ・ヘヴン―Down to Heaven

ダウン・ツ・ヘヴン―Down to Heaven

すべてがFになる (講談社ノベルス)

すべてがFになる (講談社ノベルス)

小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団

小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団

凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)


[][]森銑三『落葉籠』上 中公文庫 21:19 はてなブックマーク - 森銑三『落葉籠』上 中公文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 上巻のみ出てきた。下巻はどこへ……

 面白そうな所をひきうつしていくと、結局全部うつすはめになるので、自重。

三十四

睡余漫筆

 安井息軒の名は、鴎外の創作「安井夫人」に拠って、親しみを持っている人々があるだろうか。その息軒が明治八年、七十七の時に脱稿した仮名交りの随筆「睡余漫筆」三巻がある。「日本儒林叢書」に収められているから、一部の人々は知っていようが、今はその中の記載の幾つかを紹介しよう。息軒の学殖の窺われる条々を外にして、二次的な箇所ばかりを挙げることになってしまうが、その点には予め勘弁を願って置こう。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 以下、息軒の話題からいくつか。

三十四

軽んぜられた儒教

 息軒は江戸時代に儒教の大いに行われなかったことを回顧して、次のようにいっている。

 応仁の乱以後天下が乱れて、武人は文を学ぶに暇がなくなり、文字のことは一切僧徒任せた。豊臣氏の末に藤原惺窩その他が出たが、多くは坊主がえりだった。たまたま士族から儒者になっても、皆薙髪して僧の形でいた。それ故に僧徒は、儒者を自分等の属官かのように思っていた。五代将軍の時に法を改めて、儒者も始めて平人に列することにしたが、なお官途には用いられず、儒者は儒者で一生を終った。禄が少く、位も卑いものだから、人は皆これを賤んだ。甚しきに至っては、学問好きの子どもをおどして、今に儒者にせられるぞ、などといったりした。儒者自身も自分を軽んじて、僅かに四書の講釈が出来ればそれでよいとして、才のある者や、都会に住む者などは、世間に通りのよい詩文を学んで、僅かの利と名を求めるのを己の業とし、国を治める道などは絶えて講じなくなってしまった。それで今日も、儒学は他の道に圧せられて用をなさぬことになってしまっている。

 近世は儒教主義の時代だったのであるが、学問の重んぜられなかったこと、まことに息軒のいえるがごとくだったのである。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 大学頭くらいになれば、それはいいのでしょうが、裾野をささえる市井の儒者、ってのは厳しいと。

三十四

無用の用

 息軒は速成を求めるほど学問の上に害のあることはないといい、必読の書などというものを極めて学ばせるようでは、ろくな学者は出来ないといい、学問の上にも無用の用を説いている。大坂でただで芝居を見せる席を拵えて、青田と呼んだ。実がないという意味だった。先年お上へ願って青田を廃したら、実のある見物人も随って減じた。青田で芝居を見る貧民達が、廃止を怨んで、芝居をそしったからである。止むを得ずにまた願出て青田を拵えた。これがすなわち無用の用だと息軒はいっている。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 「大器晩成」だの「無用之用」など、ちらほら老荘思想も見え隠れしますね。

三十四

産児制限

 明治八年から遡ること四十五年は天保元年であるが、その年日向国飫肥の城主伊東祐相が、日向に子を間引く悪俗の盛なのを歎いて、法令を布いて厳禁し、三人以上の子を持つ者には養育料を与えることにした。事は故障なしに行われて、後には殺せと命じても殺す者はなくなった。その時板敷という村に六十余の老爺がいたが、うちには子供が三人生れたのに、貧しい者だから上の一人だけを残して、後の二人は間引いてしまった。ところが後に残した上の伜もなくなって、致し方なしに養子した。殿様がもう三十年早く出て下すったら、養子の世話にならずとも住んだのにと歎いたそうだ。息軒はかようなことをも書いている。動かされる話である。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 いろいろと考えさせられる。

三十四

新奇は陳腐中にあり

 常を厭い奇を喜ぶのは古今の通患である。殊に日本人は才気走っていて、新しい物には飛附きたがり、奇巧を逐ったりするのはどうか。既に徂徠も「万古の新奇総べて陳腐中にあり、天鶯花を捨てて別に春を為すこと能はず」といっているとして、息軒はそれに同感している。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 これは私もそう思います。というかまんま「温故知新」ですよね。


 儒者が軽んぜられているからといって、無視していい存在ではありませんよね。学問界隈で活動していればなおのこと。すこし先のページで、これも幕末の林外(広瀬淡窓の甥)が記した「林外遺稿」。

三十八

軽んぜられた儒者

 林外は慶応三年四月に郷里の豊後の日田を出て東遊して、十月江戸に至る。その最後の十日間の出来事を詳記したものが「入関録」で、「遺稿」の巻四に収めてある。その中で儒者の軽んぜられる状態を述べて、予の此の行に接するところの儒生は十を以て数えるが、語るべき者は土井(聱牙)、鷲津(毅堂)の数人に過ぎなかった。その他は大抵時務に通ぜず、ただ辺幅を修めている。世の相軽んずる、故なしとなさずといって居り、更に嘗て人に語っていったところを叙して、「儒生と語るは、俗人と語るに如かず、下戸と語るは上戸と語るに若かず。若し儒にして且つ下戸ならば、則ち万感の書を読むと雖も、又語るに足らざる也。而して予も亦其一人也。豈に自ら歎ぜざるべけん乎」ともいっている。

 林外は明治後洋学をも修めようとしていたことが、長(ちょう)三洲の撰した墓碑銘の中に見えているが、迂遠な儒者達には愛憎(あいそ)をつかしていたらしい様子が窺われる。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 酒がないと話にならない、というのは完全に林外さんの趣味だと思うのですが。

 儒者のほうでも、もう諦めて向上心をうしなった人々がいた模様。

 ダジャレの話。よくもまあこういろいろ話題がありますねえ。さすがすぎるとしかいいようがありません。

四十

伊予は居よいか

 「佐渡へ佐渡へと草木も靡く、佐渡は居よいか住みよいか」という俚謡が今も盛に謡われているが、これはもと「伊予へ伊予へと草木も靡く、伊予は居よいか住みよいか」といったのが転じたらしいということを、「助六心中」という古い狂言本に拠って知った。「伊予は居よいか」でこそ意味を成すが、それを「佐渡」としたのでは、何の変哲もないことになってしまう。下らぬ改悪をしたものである。

 「舎利」の前章に引いた道行には、「そちは伊予路か出雲路か。伊予も住みよも我が子のあらば、ゐなかも住みよからまし」という文句があるが、これも「伊予は居よいか」の歌を踏まえた文句らしい。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 「草津、草津と草木も靡く」というのも聞いたことあるなあ。温泉に来いとの広告でしょうけど、「住む」ってのは湯治的な意味にとればいいのでしょうか。

 まあ、こっちは「徐州徐州と人馬は進む、徐州居よいか住みよいか」の世界観以降の人間ですから、居よかろうが住みよかろうが、殺戮と恐怖と絶望を感じとってしまう文句です。

落葉籠〈上〉 (中公文庫)

落葉籠〈上〉 (中公文庫)


[][][][]馮夢竜 太田辰夫『平妖伝』大系36 平凡社 を読む(その6) 21:45 はてなブックマーク - 馮夢竜 太田辰夫『平妖伝』大系36 平凡社 を読む(その6) - 蜀犬 日に吠ゆ

第四回 老狐 おおいに半仙堂を閙(さわ)がし/太医(たいい) 細かに三支脈を弁ず

 閙がしてるレベルが、孫悟空先輩に比べるとたいしたことないので、見出し詐欺かしらと思ってしまう。

 さて、益州の名医厳本仁は三本指を当てるとたちまち名信断を下すので厳三点と呼ばれていました。それが州知事の病気のみならずその奥方の産褥まで見抜いたため、知事は尊敬ひとかたならず、厳半仙と呼ぶのでした。乞食婆に扮した老狐聖姑姑が訪ねる名医こそ、この厳三点です。

 厳三点は貧しい人たちにも施術していましたから、門前市をなす状態であり乞食婆の姿では入り込むすきもありません。結局その日の診療時間が終わった夕暮れに入り込もうとします。門を閉めるために出てきた書生や、また執事とすったもんだがあって、厳三点にようようあうと、たちまち獣であることを見抜かれてしまいます。

 「おおいに半仙堂を閙がし」、って、死んだふりかい。

 厳三点の予言。左黜の傷は治るが左足の機能は全快はしない。妹である胡永児にも禍が起こるが、厳三点ほどのものでも推しはかることもできない災難である。人を惑わす妖狐であることはやめて、師を求め道を訪ねるべきだ、と。

 老弧は洞穴に帰り、厳三点の処方のとおり丸薬膏薬を使って傷は癒えてゆきます。聖姑姑は息子を左瘸と名を改めて半仙の明察を尊ぶのでした。

 しかし左瘸のほうではおさまりません。傷が癒えたら仇を討つつもりだと母親に相談します。それに母がどう答えたのか、それは次の回で。

中国古典文学大系 (36)

中国古典文学大系 (36)