蜀犬 日に吠ゆ

2011-07-13

[][]森銑三『落葉籠』上 中公文庫 21:19 はてなブックマーク - 森銑三『落葉籠』上 中公文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 上巻のみ出てきた。下巻はどこへ……

 面白そうな所をひきうつしていくと、結局全部うつすはめになるので、自重。

三十四

睡余漫筆

 安井息軒の名は、鴎外の創作「安井夫人」に拠って、親しみを持っている人々があるだろうか。その息軒が明治八年、七十七の時に脱稿した仮名交りの随筆「睡余漫筆」三巻がある。「日本儒林叢書」に収められているから、一部の人々は知っていようが、今はその中の記載の幾つかを紹介しよう。息軒の学殖の窺われる条々を外にして、二次的な箇所ばかりを挙げることになってしまうが、その点には予め勘弁を願って置こう。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 以下、息軒の話題からいくつか。

三十四

軽んぜられた儒教

 息軒は江戸時代に儒教の大いに行われなかったことを回顧して、次のようにいっている。

 応仁の乱以後天下が乱れて、武人は文を学ぶに暇がなくなり、文字のことは一切僧徒任せた。豊臣氏の末に藤原惺窩その他が出たが、多くは坊主がえりだった。たまたま士族から儒者になっても、皆薙髪して僧の形でいた。それ故に僧徒は、儒者を自分等の属官かのように思っていた。五代将軍の時に法を改めて、儒者も始めて平人に列することにしたが、なお官途には用いられず、儒者は儒者で一生を終った。禄が少く、位も卑いものだから、人は皆これを賤んだ。甚しきに至っては、学問好きの子どもをおどして、今に儒者にせられるぞ、などといったりした。儒者自身も自分を軽んじて、僅かに四書の講釈が出来ればそれでよいとして、才のある者や、都会に住む者などは、世間に通りのよい詩文を学んで、僅かの利と名を求めるのを己の業とし、国を治める道などは絶えて講じなくなってしまった。それで今日も、儒学は他の道に圧せられて用をなさぬことになってしまっている。

 近世は儒教主義の時代だったのであるが、学問の重んぜられなかったこと、まことに息軒のいえるがごとくだったのである。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 大学頭くらいになれば、それはいいのでしょうが、裾野をささえる市井の儒者、ってのは厳しいと。

三十四

無用の用

 息軒は速成を求めるほど学問の上に害のあることはないといい、必読の書などというものを極めて学ばせるようでは、ろくな学者は出来ないといい、学問の上にも無用の用を説いている。大坂でただで芝居を見せる席を拵えて、青田と呼んだ。実がないという意味だった。先年お上へ願って青田を廃したら、実のある見物人も随って減じた。青田で芝居を見る貧民達が、廃止を怨んで、芝居をそしったからである。止むを得ずにまた願出て青田を拵えた。これがすなわち無用の用だと息軒はいっている。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 「大器晩成」だの「無用之用」など、ちらほら老荘思想も見え隠れしますね。

三十四

産児制限

 明治八年から遡ること四十五年は天保元年であるが、その年日向国飫肥の城主伊東祐相が、日向に子を間引く悪俗の盛なのを歎いて、法令を布いて厳禁し、三人以上の子を持つ者には養育料を与えることにした。事は故障なしに行われて、後には殺せと命じても殺す者はなくなった。その時板敷という村に六十余の老爺がいたが、うちには子供が三人生れたのに、貧しい者だから上の一人だけを残して、後の二人は間引いてしまった。ところが後に残した上の伜もなくなって、致し方なしに養子した。殿様がもう三十年早く出て下すったら、養子の世話にならずとも住んだのにと歎いたそうだ。息軒はかようなことをも書いている。動かされる話である。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 いろいろと考えさせられる。

三十四

新奇は陳腐中にあり

 常を厭い奇を喜ぶのは古今の通患である。殊に日本人は才気走っていて、新しい物には飛附きたがり、奇巧を逐ったりするのはどうか。既に徂徠も「万古の新奇総べて陳腐中にあり、天鶯花を捨てて別に春を為すこと能はず」といっているとして、息軒はそれに同感している。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 これは私もそう思います。というかまんま「温故知新」ですよね。


 儒者が軽んぜられているからといって、無視していい存在ではありませんよね。学問界隈で活動していればなおのこと。すこし先のページで、これも幕末の林外(広瀬淡窓の甥)が記した「林外遺稿」。

三十八

軽んぜられた儒者

 林外は慶応三年四月に郷里の豊後の日田を出て東遊して、十月江戸に至る。その最後の十日間の出来事を詳記したものが「入関録」で、「遺稿」の巻四に収めてある。その中で儒者の軽んぜられる状態を述べて、予の此の行に接するところの儒生は十を以て数えるが、語るべき者は土井(聱牙)、鷲津(毅堂)の数人に過ぎなかった。その他は大抵時務に通ぜず、ただ辺幅を修めている。世の相軽んずる、故なしとなさずといって居り、更に嘗て人に語っていったところを叙して、「儒生と語るは、俗人と語るに如かず、下戸と語るは上戸と語るに若かず。若し儒にして且つ下戸ならば、則ち万感の書を読むと雖も、又語るに足らざる也。而して予も亦其一人也。豈に自ら歎ぜざるべけん乎」ともいっている。

 林外は明治後洋学をも修めようとしていたことが、長(ちょう)三洲の撰した墓碑銘の中に見えているが、迂遠な儒者達には愛憎(あいそ)をつかしていたらしい様子が窺われる。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 酒がないと話にならない、というのは完全に林外さんの趣味だと思うのですが。

 儒者のほうでも、もう諦めて向上心をうしなった人々がいた模様。

 ダジャレの話。よくもまあこういろいろ話題がありますねえ。さすがすぎるとしかいいようがありません。

四十

伊予は居よいか

 「佐渡へ佐渡へと草木も靡く、佐渡は居よいか住みよいか」という俚謡が今も盛に謡われているが、これはもと「伊予へ伊予へと草木も靡く、伊予は居よいか住みよいか」といったのが転じたらしいということを、「助六心中」という古い狂言本に拠って知った。「伊予は居よいか」でこそ意味を成すが、それを「佐渡」としたのでは、何の変哲もないことになってしまう。下らぬ改悪をしたものである。

 「舎利」の前章に引いた道行には、「そちは伊予路か出雲路か。伊予も住みよも我が子のあらば、ゐなかも住みよからまし」という文句があるが、これも「伊予は居よいか」の歌を踏まえた文句らしい。

森銑三『落葉籠』上 中公文庫

 「草津、草津と草木も靡く」というのも聞いたことあるなあ。温泉に来いとの広告でしょうけど、「住む」ってのは湯治的な意味にとればいいのでしょうか。

 まあ、こっちは「徐州徐州と人馬は進む、徐州居よいか住みよいか」の世界観以降の人間ですから、居よかろうが住みよかろうが、殺戮と恐怖と絶望を感じとってしまう文句です。

落葉籠〈上〉 (中公文庫)

落葉籠〈上〉 (中公文庫)