蜀犬 日に吠ゆ

2011-08-17

[][][][][]秋のうた を読む(その10) 16:24 はてなブックマーク - 秋のうた を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ

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 残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ

             永井荷風


 小説『墨東綺譚(ぼくとうきたん)』の主人公「私」が明治四三年ごろ、「亡友啞々(ああ)君が深川長慶寺裏の長屋に親の許さぬ恋人と隠れ住んでゐたのを、其折々に尋ねて行つた時よんだもの」として、同作品中に引かれている句の一つ。荷風自身の旧作と考えられている。秋の蚊は弱々しく壁にはりつき、わびしい長屋の壁には雨のしみがにじんで、古色蒼然となっている。荷風が好んで描いた市井隠逸(いんいつ)の情緒。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 蚊の数を数えたり、壁のしみをにらんだりするのは、荷風散人のときは暇だったからでしょう。友達の家をおとのうておいてこの主人公は何をしているか。おそらく、やりきれぬ思いに言葉が出ず、何気ないふりをしながらすることもないので蚊の動きを眼で追いかけていたら、雨のにじんだ長屋の壁がみえたのでしょう。そしてまたことばがでなくなってしまう、と。



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 秋の航一大紺円盤の中

          中村草田男


 『長子』(昭一一)所収。この句を知った後、秋色深い海上を旅してこれを思い出さずにすますことは難しい。草田男の句の青春性を人は言うが、それは心の若々しさから来ると同時に、表現された詞句の若々しさからも来ているだろう。自分の乗る舟を、海が全円のひろがりをもって包んでいる。それをいうのに、作者は朗々たる音読みの後をつらね、ン音のくりかえしに若い命の律動を刻んだ。

大岡信『折々のうた』岩波新書

 草田男は、「万緑」もそうですが漢語で大げさな情景を堂々と言い切ってしまうところがあります。この句で、船の中というよりも鳥瞰のような景色を想像しました。

 ところで「海なし県」出身なもので、「一大紺円盤」のどこら辺に秋を感じればいいのか分からないですね。空の雲かしら。

折々のうた (岩波新書 黄版 113)

折々のうた (岩波新書 黄版 113)