蜀犬 日に吠ゆ

2012-05-01八十八夜

[][]『坂口安吾全集』18 ちくま文庫 15:00 はてなブックマーク - 『坂口安吾全集』18 ちくま文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

明日は天気になれ

ドデウ論争

 熱海の来の宮に重箱というウナギ屋がある。もと東京下谷に江戸時代から名のあった家である。熱海の奥にひっこんで以来も味の落ちることはなく、私の食った限りでは、天下にここよりうまいウナギはない。

 重箱の親父は江戸は下谷で久保田万太郎宗匠と小学校を一しょに卒業した仲であるが、彼の主として用いるウナギは主として九州ヤナガワのものか東京でクダリと称する近在のウナギかで、いくら腕自慢でも原料が悪いとうまいカバヤキはできないそうだ。

『坂口安吾全集』18 ちくま文庫

 この文章は昭和二十八年に『西日本新聞』に連載された「明日は天気になれ」の一節ですから、東京の名店が熱海にひっこんだというのも疎開のまんま帰ってこなかったとかそういう可能性もあります。

 原料がよくないと、などと言いますがだいぶんお値段が張りそうな会話ですね。

 本題は、かなづかいのことです。

明日は天気になれ

ドデウ論争

 彼は天性ウナギに徹した誠実な職人であるが、したがって彼は保守家でもあり、万太郎宗匠の親友でもあるから、私が新カナヅカイで物を書くのが気に入らないのである。

「ドジョウという字はアッシの子供の時分はドゼウと書いたもので、ドゼウときまったものでしたよ」

 彼はこういって私の新カナヅカイに抗議を申しこんだ。他のいかなる引例も用いないで、ウナギの親類のドゼウだけを引いてきたのはさすがにアッパレと申さなければならない。

 たしかにドジョウは明治時代はドゼウをカナをふったもので、今でも駒形の有名なドジョウ屋の看板には「どぜう」とある。

 けれども江戸以前にはむしろ「どでう」と書いたのが多い。

「どでう」と「どぜう」とどちらが正しいかをきめるのは困難で、したがって「ドジョウ」がいけないというこんきょもなかろう。

『坂口安吾全集』18 ちくま文庫

 契沖あたりを持ちだしたがる人がいますよね。なにか正しい表記が一つに決められているかのように振る舞う人たち。しかし仮名づかいというのは沢山の慣行の上に成立した物であることを見失ってはいけないと思います。漢字やカナモジにしても、標準の字体だの異体字だの変体だのというのはただの「取り決め」なのであって「正邪」の価値観を持ちこまないで欲しいですね。

 このウナギ屋のご主人も、沢山存在する「悪意はない」けれども「日本人である自分は日本語が分かっている」と勘違いしている人です。床屋の漫談ならばかまいません。呼びもしないのに出てきてご高説を振り回すのはやめて欲しい。

 閑話休題。

明日は天気になれ

ドデウ論争

 篤学で名のある作家に「かげらふ」という作品がある。

 この「かげらふ」は蜻蛉の意であるが、昔は陽炎を「かぎろひ」といった。その「かぎろひ」のはかなさにたとえて蜻蛉の「かげろふ」の名もできたものらしいから、語源的にも「かげろふ」は「ろ」であって、「ら」ではないことがハッキリしているようだ。

 ずいぶん篤学な人でも、つい「かげらふ」なぞと誤りやすいほど、日本古来のカナヅカイはヤッカイなものだ。

『坂口安吾全集』18 ちくま文庫

 ポプラ社小説大賞、齋藤智祐『KAGEROU』は脇に置くとして「篤学で名のある作家」の「「かげらふ」という作品」とは、一体何を指すのかちょっとよく分かりませんでした。おそらく大佛次郎『かげらふ噺』講談社 なのではないかとアタリをつけましたが、自信はありません。

明日は天気になれ

ドデウ論争

 池袋から赤羽へ行く省線に「十条」という駅がある。この駅名はカナ書き時代「でうでう」と書かれていた。

 上の「でう」は十であるからジュウと発音し、下の「でう」は条であるからジョウと発音する必要がある。

『坂口安吾全集』18 ちくま文庫

 

 途中で切りますが「省線」って。鉄道省だけでない民営鉄道建設ブームを効率化するため鉄道国有法が制定された1906年(明治39)は、坂口先生の生年ではありませんか。それ以降は「官鉄」もしくは「日本国有鉄道(国鉄)」という言い方になったはず。これでは1987年(昭和62)生まれの人が「国鉄」だの「E電」だの言っているわけで、だいぶ時代錯誤感が強い。


明日は天気になれ

ドデウ論争

 なるほど昔から「でう」と書いて、ジュウとよんだばかりでなく、ジョウとよんだにも間違いないのは、ドデウと書いてもドゼウと同様にドジョウのことを指してるのでも分るのである。

「皆サン。デウデウと書いて上のデウはジュウとよみ、下のデウはジョウとよまなければなりません。昔の人はチャンとそうよんだものです。ですから、今の人がそうよまないとすれば、それはその人が学問がなくて、不勉強のせいです。その人は落第します」

 昔のカナヅカイというものは、まさに右の通りのものである。それを知らないと語源がアイマイになる例もあるが、それは専門の学者にまかせておけばタクサンだ。

『坂口安吾全集』18 ちくま文庫

 と、お得意の皮肉で〆。

 一読したときはすこし意味をとるのに躓いてしまったのですが、坂口先生のいつもの話でした。「市井の生活に専門家みたいな穿鑿をするな」「ああだこうだと理屈をこねて正しいだの間違っているだのいがみあうな」ということですね。篤学の作家の「かげらふ」にしても、これはあげつらっているというよりは「カナヅカイなどにこだわるな」ということでしょう。

坂口安吾全集〈18〉 (ちくま文庫)

坂口安吾全集〈18〉 (ちくま文庫)