蜀犬 日に吠ゆ

2014-04-06

[][]柳田国男「涕泣史談」『遠野物語』集英社文庫 17:09 はてなブックマーク - 柳田国男「涕泣史談」『遠野物語』集英社文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 ことばで語ることのできないこころ。

 言語以外の表現方法は、総括してこれを「しぐさ」または挙動と謂っているが、あるいはこの語では狭きに失して、「泣く」までは含まぬような感じがある。しかしもっとよい名ができぬ以上は、用心をしてこの名で呼ぶより他はない。ジェスチュ・ラングェージという語を、タイラーの『原始文化論』などには使っていて、是が社会生活の大きな役割をしていることは、少なくとも未開人については、くりかえし我々の実験し得たところであるが、実はありふれたこととして気に留めないばかりで、多くの文明人もまたそういう空気の中に生息しているのである。それにもかかわらず、今日は言葉というものの力を、一般に過信している。それというのは書いたものが、あまり幅をきかせるからかと思う。文章はすべて言葉ばかりから成り立ち、日本はまた朗読法などということをまるで考えに入れない国であるから、書いたものだけに依って世の中を知ろうとすると、結局音声や「しぐさ」のどれくらい重要であったかを、心づく必要などはないのである。

柳田国男「涕泣史談」『遠野物語』集英社文庫

 柳田民俗学の重要な部分にも触れる考察です。民俗学は「口承」ということに注目した、本来なら学問的厳密性を持ち得ない研究手法でした。粘り強く書き起こすことである意味「資料を創出」していくわけですけれども、言葉にしてしまった段階で多くの要素は切りすてられてしまう、それを文字に記述したら、ますます「本来の人びとのあり方」から遠ざかってしまうわけですが、それでも、それしか方法はない。柳田国男の苦悩が感じ取れます。

 言語の万能を信ずる気風が、今は少しばかり強すぎるようである。「そう言ったじゃないか」。そうは言ったが実際はそう考えていなかった場合に、こういう文句でぎゅうぎゅうと詰問せられる。「何がおかしい」。黙って笑っているよりほかはない場合に、言葉で言ってみろと強要せられる。「フンとはなんだ」。説明してみよという意味であるが、実はその説明ができないから、ただフンと謂うのである。是らは大抵は無用の文句で、それを発言する前から、もう相手の態度はわかっているのである。むしろ言語には表せないことを、承認する方式みたようなものである。

柳田国男「涕泣史談」『遠野物語』集英社文庫

 立場の強い側の人間は、「言いたいことがあるならはっきりと言え」というわけです、が、その裏に「8それを聞くか聞かないかは俺の胸先三寸よ)」という暗黙の了解があります。立場の強い人間のでたらめな「しぐさ」は、周りの人間が率先して忖度すべきなのですからね。言語(ロゴス)とは、強者の論理(ロゴス)。日本人がどうして必死に英語学ぶのか、学ばせるのかといえばアメリカさまがつよいから。

遠野物語 (集英社文庫)

遠野物語 (集英社文庫)