蜀犬 日に吠ゆ

2014-07-24

[][][]大いなる章を読む(その29) 20:35 はてなブックマーク - 大いなる章を読む(その29) - 蜀犬 日に吠ゆ

第三 大いなる章

六、サビヤ

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の所説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

五二三 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を(田の勝者)と呼ぶのですか? 何によって匠なのですか? どうして(賢者)なのですか? どうして(聖者)と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

五二四 師が答えた、「サビヤよ。天の田・人の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、――このような人がまさにその故に(田の勝者)と呼ばれるのである。

五二五 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、――このような人がまさにその故に(巧みな人)と呼ばれるのである。

五二六 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清(きよ)らかな智慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人、――このような人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

五二七 全世界のうちで内面的にも外面的にも聖者の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、――かれは(聖者)である。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 ここは久しぶりに註を引きますか

五二三の註

第三 大いなる章

六、サビヤ

五二三 田の勝者――原文には khettajina とあるが、何を意味するかはっきりしない。ブラーフマナ、ウパニシャッド、叙事詩に頻繁に出てくる ksetrajina(田を知る者)にもとづいて、仏教徒がこのように改めたのではなかろうか。つまり訛ったのである。第五二四詩の説は ksetrajina の原意に解することも可能である。註釈は「田」とは「十二処」のことであると解し、それを「知る」はたらきによって無明をほろぼしうるという(vijeyya=viceyya)。なお似た表現として maggajina(84)参照。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 なるほどつまり訛ったのですか。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)