蜀犬 日に吠ゆ

2017-05-06

[][][][] 軽蔑すべき教師~~原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書 21:00 はてなブックマーク -  軽蔑すべき教師~~原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書を読んでいたら、唐突に東京高等師範出身の先生がdisrespectされていましたので、ここに書き留めておきます。

 昭和七年四月、大東文化学院高等科*1に在籍したときに諸橋『大漢和』の編集メンバーに誘われて、雑司ヶ谷の諸橋教授のお宅に通う。

 メンバーには大東文化学院が多く、のちに刊行されたある書物に、「文理大*2の学生を編纂助手として」とあるところからしてやり玉に挙がる。

第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

(略)「昭和八年からは杉並区天沼(あまぬま)に家を一軒借り、文理大の学生を編纂助手として能率向上をはかった」とあかれているが、「昭和八年」は「昭和十年」の誤り、「文理大の学生」は天沼の編纂所には一人もおらず、すべて大東文化の出身者と在学生だけであったことをついでながら明らかにしておこう。おそらく、高等師範の出身者は漢文の読解力が不足していたkら『大漢和』の原稿作成に関与することはとうていできなかったであろう。資料蒐集(しゅうしゅう)時代に大東文化の学生は『周礼』『儀礼』『公羊伝(くようでん)』や『漢書』『後漢書』等の白文の原書から語彙カードを採取していたのに対し、たとえば、高師の学生だったK氏は先生から少年漢文叢書の返り点送り仮名のついている『論語』『孟子』を与えられて、語彙カードを作った思い出を書いていた――それほどの差違があったのである。

 高師は国漢科であるから、国語と漢文の両方を学習し、しかも就職に有利だからと修身や習字の免許を取るための学習もしていたから、漢文の力はあまり伸びなかったのである。大東文化の学生は、旧制中学時代から漢文が好きで、白文が読める力を持って進学し、更に高度の漢文を専攻したのであるから『大漢和』に引用する原文を読解することができたのである。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 なんといいますか、対抗意識を感じる。高師や文理大の学生は当然教授である諸橋先生の教えを直接受けているわけで、「少年漢文叢書」の話を見るに先生が優しく接しているのに対して大東文化の側は腹に一物かかえることになったのでしょうか。

 閑話休題(それはさておき)、原田先生、卒業後もしばらく辞書編纂にかかりきり。ですが生活のためには就職も考えなければなりません。始め明治大学附属中学校につとめます。

第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

 私は将来もずっと教員をしていくならば、明治中学も決して悪くはないが、まず公立中学校へつとめたいと考え、諸橋先生に相談した。すると、先生からちょうど高等師範の教え児の本村伝吉氏が府立十二中の校長をしていて、漢文教師を探しているからと、先生の推薦で十七年一月三十一日、東京府立十二中学校の教諭となった。本村校長は高等教員の免許所持者を教員に集めていたのである。十二中学は間もなく千歳中学と校名変更になった。

(中略)

 そして、十八年の六月ごろ、橋本氏から連絡があった。応召で欠員ができたから群馬師範へ来ないかという。下谷の金杉で生まれ、根岸の小学校から神田の中学、そして九段の大東文化学院と、私は東京を離れて暮らしたことはなく、昭和十五年に水戸中学から学院を通じて招聘があったときも、東京を離れたくなかったので断ってしまったくらいだ。しかし、橋本氏は岳父の恩師であり、私はあれやこれや考えた末、東京を離れる決心をした。官立専門学校に昇格した「師範学校教授」とは歴とした高等官である。私は家族をつれて親類縁者の一人もいない前橋に移り住むことにした。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 というわけで転勤。その群馬の話も面白いのですが、今回は転勤の際の所感。


第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

 私の場合、内閣の発令が、いつになるかわからなかったが、千歳中学本村伝吉校長に正式に申し出たところ、校長は何を考えていたのか、私の学級担任も授業科目も全部はずして、図書の整理をしてくれと言う。

 私は赴任の前日まで、心残りのないように精魂籠(こ)めた授業をして中学を去ろうと思っていたのに、その願いは踏みにじられて悔しくてたまらなかった。本村校長は転任が決まった教師は、真面目な授業をしないものと持っていたらしい。彼自身がそのような教師であったのかもしれない。

 本村校長は東京高等師範学校の国漢科出身で、四十代の初めに校長になり、有能な校長と思われていたが、私はかねてよりその教育観に疑問を抱いていた。あるとき校長が漢文の授業を担当したことがあった。その試験の監督を私がしたとき、校長は生徒がやまをかけるから各ページから一字ずつ読み方を出題するのだといった。私はそれを聞いてあきれてしまった。

 私は試験というものは、その範囲の中で一番大切なところ、一生涯覚えておく価値のあるところを出題すべきであると考え、また、実際、私の出題はそれに徹していた。それが教育であると信じている。校長のやり方は、教育効果ということをまったく考えないものであった。私は校長を心の中で軽蔑していた。

 体躯は堂々として豪傑ぶっていたが、もらった葉書を見ると、小さい字で隅のほうにチョコチョコと書いているので、見かけとは違って肝っ玉の小さい人物だと思っていた。

 人を信頼することができない小心な言動にいやになり、彼が勝手に決めた図書の整理などもまったくする気がなかったから、学校へは足を向けず、発令になるまで編纂室に出て辞典の仕事を続けた。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 まあ、そりが合わなかったのだなあ、という印象。あと、気に入らないからと学校行かないという豪傑ぶりもどうなのでしょうね?

*1:いまの大東文化大学

*2:高等師範の付属大学(!)