蜀犬 日に吠ゆ

2017-09-04

[][][]スンナ派の四学派について 17:40 はてなブックマーク - スンナ派の四学派について - 蜀犬 日に吠ゆ

 ハナフィー派、マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派。

 現在の私の理解。

  • 四学派
    • それぞれがイスラーム各国で共存している。
    • 学派によってシャリーアは異なる。法官はおのれの学派に基づいて判断を下す。
    • コーランに全ての状況が網羅されているわけではないので、ムスリムは常に判断を迫られる。その基準の違いが学派をうみだした。
  • ハナフィー派
    • 地域の慣行や個人的見解(ラーイ)を広く採用し、商業活動による富の獲得にも寛大な理解を示す。
    • セルジューク朝やオスマン朝では積極的に取り入れられた。
  • マーリク派
    • ハディースよりもマディーナの慣行を重視する。
    • 穏健ではあるが、慣行を逸脱した背教者に容赦しない。
  • シャーフィイー派
    • 類推(キヤース)を法源とする理論を確立。
  • ハンバル派
    • ハディースの厳密な解釈、合意(イジュマー)の範囲の限定、イスラーム神秘主義の厳しい批判.
    • マムルーク朝で重要視され、ワッハーブ運動につながる。

 とりあえず、佐藤先生のまとめを読んでおきます。

イスラーム法の形成

 八世紀から九世紀へかけて、法学者たちはクルアーンやハディースを典拠にして、それぞれ独自のイスラーム法(シャリーア)をつくりあげていった。体系化の過程では、クルアーン、スンナ(預言者の言行、つまりハデイィース)、イジュマー(学者たちの合意)を基礎にキヤース(類推)*1も方言として採用されたが、これ以外に各地に固有な慣行(アーダ)も考慮された。これらのいずれを重視するかによって、法解釈の違いが生じ、さまざまな法学派(マズハブ)が誕生することになった。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 各地の慣行もまた重視されるあたりが、イスラームの柔軟さをあらわしていますね。八世紀から九世紀というのはウマイヤ朝(661~750)によるアラブ帝国が領域を拡大*2した時期から、アッバース朝(750~1253)の衰退期。イスラームとは何か(ウマイヤ朝(西カリフ国)やシーア派をどうとらえたらよいのか)が課題として出された時期なのかな、と考えずにはおれません。


イスラーム法の形成

 シャリーアの書には、食生活や沐浴・礼拝・断食などの宗教儀礼、結婚と離婚、葬儀、遺産相続、裁判、刑罰、租税、戦争の問題など、信者の生活に関わる事柄全般があつかわれている。したがってシャリーアは、信者に生活の指針を示す倫理の書であると同時に、裁判官(カーディー)が拠り所とする実定法としての性格も備えていたといえよう。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社
イスラーム法の形成

 大事なことは、一つの国家に一つのシャリーアが適用されたのではなく、一つの国家には複数のシャリーアが存在していたことである。裁判は、被告が属する法学派の法規定に従って執行されるのが原則であった。イスラーム世界では、どの国家でも単一のシャリーアが施行されたかのように思われがちであるが、各学派はそれぞれ独自の法体系をもち、個々の法が社会の中で実際に用いられていたことに注目すべきである。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 葦の髄から作り上げた常識が吹っ飛ぶ。裁判官(カーディー)は、四法学派をそろえていて、自分で選べるのでしょうか? もしくは裁判官(カーディー)がそれぞれの学説に通暁していて被告の立場によって判断を変えると言うことなのでしょうか。

 前者であるとすれば、被告人は自分に都合の悪い判決には論争を挑むことができるはず、です。四学派以外で異端でない学派では無誤謬であると言い張ったらどうするのでしょう。

 後者のような法学者は、以下に示すようにあり得ません。いずれかの学派で徹底しなければイスラーム法学を修めることはできないのですから。

 いったい、イスラームの国家と法制はどのようになっているのか。学んだつもりが謎が増えるばかりです。

 つづいて、谷口先生の解説

宗派の形成と学問修得方法の定式化

 九世紀前半の異端審問をともなった論争の末に、ムスリムの多数派の間では伝統主義的な考え方が優勢となった。この流れを受けて、続く十・十一世紀には伝統主義的な立場から神学や法学などの分野で学説が整えられて

いった。他方、シーア派においても十・十一世紀は、基本的な教義が成立していった時期である。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社
宗派の形成と学問修得方法の定式化

(前略)シーア派の活動に対抗するなかで、これらの分派活動に与しなかった人びとは、伝統主義の延長線上に独自の教義を発展させていった。十一世紀以降、神学ではアシュアリー学派とマートゥリーディー学派*3が主流派の位置を占めるようになった。方角においては、シャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の四大法学派が成立していった。こうして、分派に属さない多数派は、独自の教義体系を持つスンナ派という宗派を形づくるようになったのである。このように、イスラームの歴史においては、主流派が形成されてから分派が分かれていったのではなく、まず分派が形成され、そのあとに多数派が宗派と呼べる実態を獲得していったわけである。


 かくして、十世紀から十一世紀にかけて、現在にいたるイスラームの宗派の基本的な枠組みとそれぞれの基礎となる教義が成立していった。言い換えれば各宗派の学問体系が整ってきたということであり、それはさらに学問方法の定式化を招いたと考えられる。このことを間接的に示すのが、この時期以降目立つようになる学問方法を論じた著作物である。このような著作はスンナ派だけでなくシーア派の学者によっても著されており、しかもその内容には共通する点が多い。彼らが学問の方法としてとくに重視しているのは、読誦すること、暗記すること、師につくことの三点である。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社

 まとめますと、「神学と法学は区別される」ということ。「法学派とは、学問体系を異にする」ということ。えーと、四法学派とは、文学と数学や、舎密学と民俗学のように異なっているのでしょうかね。

 「読誦すること、暗記すること、師につくことの三点である。」はなんかかっこいいですが、日本の葬式仏教もそんな感じと言えばそんな感じですよね。

イスラーム法の形成

 ここでは、法学派誕生のようすとそれぞれの派の特徴をまとめてみよう。まずハナフィー派について。この学派の祖となったアブー・ハニーファ(六九九頃~七六七)は、イラク中部のクーファで法学や神学を学び、この州都における法学の第一人者とみなされるようになった。ハナフィー派は他の学派より地域の慣行や個人的見解(ラーイ)を広く採用し、商業活動による富の獲得にも寛大な理解を示した。トルコ人のセルジューク朝(一〇三八~一一九四年)やオスマン朝は、このハナフィー派を積極的に支持したことで知られる。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 699~767でイラクに住んでいると、まさにウマイヤ→アッバースの易姓革命(クライシュ族内のウマイヤ家→ハーシム家アッバス)を目の当たりにし、シリアのダマスカスからバグダードへの遷都を経験した人ですねえ。地域の慣行(アーダ)の重視は、シーア派やマワーリー(周辺民の改宗者)の協力で革命を成したアッバース朝にも都合がよかったのでしょうね。


イスラーム法の形成

 マディーナのマーリク・ブン・アナス(七〇九頃~七九五)は、ハディースに依拠するよりは、マディーナ社会の慣行こそそこの人々の個人的な意見を重視して、マーリク派法学の体系化を推し進めた。その規定自体は概して穏健であったが、慣行から逸脱する過激派には厳しく、またイスラームを捨てた背教者は死に値するとみなしたという。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 穏健と言いますが、マディーナ(メディナ、ヤスリブ)の慣行というのはムハンマド以前(無明時代、ジャーリヒーヤ)を含む「アラブ主義」なのではないでしょうかね。同じようにアッバス朝の易姓革命(750)に立ち会って、アラブ帝国からイスラム帝国への変容に異議を唱える学派なのかもしれませんよ。これは。ただ、背教者って誰でしょう。ここまでイスラムイスラムしているところで、マディーナあたりで背教する人がまだいたのかしらん。

 谷口先生が解説してました。

ハディース学と法学の発展

 アッバース革命は、一部のシーア派勢力と提携し、「ムハンマド家による支配」の実現を旗印に支持を集め、七四九年ウマイヤ朝から政権を奪取することに成功した。しかい、権力を握った一族がシーア派の痛いしたムハンマドの子孫ではなく、ムハンマドの叔父アッバースの末裔であったことから、シーア派の諸勢力はアッバース朝政権の正統性に疑問を投げかけた。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社
ハディース学と法学のはじまり

 このような状況のなかから、八世紀前半には地域ごとに法学についての一定の合意が形成されてきた。これを初期法学派あるいは前法学派などと呼ぶ。代表的な学派としては、ヒジャーズ学派とイラク学派が知られている。マッカ(メッカ)・マディーナ(メディナ)両聖地を擁するヒジャーズ地方では、預言者や教友のスンナなど伝統的な慣習を拠り所として重視する学風が主流であった。一方、征服活動によってイスラームに組み込まれたイラクは自然環境の面でも社会や文化の面においても、ヒジャーズとは非常に異なった地域であった。従ってこの地では、クルアーンや預言者のスンナだけでなく現地の慣習も重視しながら、学者個人の見解による推論を積極的に取り入れる立場が優勢となっていった。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社

 イラクは、もともとササン朝ペルシアですからねえ。アラブの常識だ!で論破は難しかったのでしょう。

 はい次

イスラーム法の形成

 エジプトのフスタートに居を定めたシャーフィイー(七六七~八二〇)は、アブー・ハニーファやマーリクが採用する「個人的な意見」を恣意的であるとして退け、独自の法学書『母の書』(キターブ・アルウンム)を著した。彼のもとには厳密な類推(キヤース)の方法を確立した新法源論に共鳴する弟子たちが集まり、やがて法学派としてのシャーフィイー派が成立する。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 少し遅れて、革命を知らない子供たちの世代。

 折衷案かしら。各地の慣行(アーダ)を法学者の類推(キヤース)で判断してもいいけど、それには一定の手続きが必要。

イスラーム法の形成

 ハンバル派の祖となったイブン・ハンバル(七八〇~八五五)は、「創造されたクルアーン」説を唱えるムータズィラ派神学を断固否定したために、二年間におよぶ投獄生活をよぎなくされた。ハンバル派の特徴は、ハディースの厳密な解釈、合意(イジュマー)の範囲の限定、イスラーム神秘主義の厳しい批判などにある。この思想は、マムルーク朝時代のイブン・タイミーヤ(一二六三~一三二八)をへて、原始イスラームへの回帰を説いたムハンマド・ブン・アブド・アル・ワッハーブへと継承されていく。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社
イスラーム法の形成

 スンナ派の法学派はこれ以外にいくつも結成されたが、主要なものは以上の四学派である。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 あと、神学と歴史学(ハディース学)についても両書に記述がありますが、あとで読む。


イスラーム―知の営み (イスラームを知る)

イスラーム―知の営み (イスラームを知る)

*1:法学者の個人的な見解ではなく、クルアーン、スンナ、イジュマーのいずれかにもとづく厳密な類推をキヤースという。シャーフィイーによって、その方法が確立された。

*2:フランク王国に侵攻したトゥール・ポワティエが732年

*3:9・10世紀に中央アジアのサマルカンドで活動したマートゥリーディーに始まるスンナ派神学の一派。セルジューク朝の勢力拡大とともに西方へ伝播した。